第7章 名ばかりの妻
名取佳奈は、電子版の離婚協議書を薄井礼央にもう一度送りつけた。けれど、薄井礼央からは何の返事もない。
須藤唯の目の前で無理やり署名させるべきか――そんな考えが頭をよぎる。
だが、散々迷った末に、その案は捨てた。
薄井礼央は昔から、他人に追い立てられるのを何より嫌う。ここで本気で決裂してしまえば、離婚はますます遠のくだけだ。
佳奈は深く息を吸い込み、掌の瑪瑙のブレスレットに視線を落とした。迷いは一瞬。通りがかったゴミ箱に、ためらいなく放り込む。
それからすぐには帰らず、彼女はショッピングモールのトイレへ向かった。
個室に入って間もなく、外から聞き覚えのある声がした。
「実は礼央って、ずっと私に優しいの。私たち、すごくうまくやってるし。もし、あの人がもう結婚してなかったら……昔みたいに戻れたのかなって思う」
佳奈はそっと扉を少しだけ開け、隙間から覗く。
須藤唯が鏡の前に立ち、化粧直しをしながらスマホをスピーカーにしていた。電話口の友人の声が、からかうように響く。
「結婚してるから何? あの人が一番大事にしてるの、どうせ唯でしょ。ここ数年、障害のある奥さんなんて眼中にないじゃん。男でさ、障害者の女を好きになる人なんている?」
鏡の中の須藤唯は、勝ち誇ったような顔をしながらも、口調だけは困ったふうに整える。
「やめなよ、そんな言い方。名取さんには会ったことあるけど、悪い人じゃなかったよ。……障害があっても、名取さんは礼央の『奥さん』なんだから」
電話の向こうで、友人が鼻で笑う。
「奥さんって肩書きがあるだけでしょ。帰国してから礼央が唯にどれだけブランド買った? 車も何台? 奥さんよりよっぽど待遇いいじゃん。しかもこの前、三日月湾にも連れてってもらったんでしょ?」
須藤唯と友人が同時に笑う。
その笑い声が、佳奈の耳には刃物みたいに刺さった。
個室の取っ手を握りしめる指に力が入り、唇の内側が切れそうになる。
三日月湾――そこは、佳奈がずっと行きたかった場所だ。
左手が動かなくなってから、人の視線が怖くて仕方ない。それでも、あの海だけは見たかった。何度も何度も薄井礼央に頼み込んだのに、返ってくるのは決まって「仕事が忙しい」の一言だった。機嫌を取るみたいに高価な品を買い与えられて、話は終わり。
それなのに。
須藤唯がひと言望めば、薄井礼央は連れて行く。
名ばかりの妻でいる自分が、惨めで、情けなくて――滑稽だった。
須藤唯が出ていくのを待ってから、佳奈はゆっくり個室を出た。
鏡の前に立ち、やつれた自分を見つめる。唇の端を持ち上げてみても、笑顔は泣き顔より醜く見えた。
この結婚のために、彼女はもう全部を差し出した。薄井礼央に憎まれていようが、恨まれていようが、今さらどうでもいい。
あと一か月。
その一か月のうちに離婚届を手に入れさえすれば、彼女は完全に自由になれる。
佳奈は濁った息を吐き出し、無事なほうの手で頬をぱん、と叩く。
しっかりしろ。
海外へ行く。音楽院へ行って、もう一度夢を拾い直す。ここで倒れるわけにはいかない。
気持ちを落ち着かせてからトイレを出る。角を曲がったところで、ふと視界の先に見覚えのある人影が入った。
佳奈は思わず目を見開く。
「木村先生!」
少し離れた場所にいた木村先生も声に気づき、振り向いた瞬間、同じように顔を輝かせた。
「佳奈! いやあ、本当に久しぶりだね!」
木村先生は足早に近づき、昔と変わらず佳奈の手を握る。眼差しは心配でいっぱいだった。
「結婚するときも招待状が来なかったから、あとで聞いて驚いたんだ。そこから何年も音沙汰なしで……佳奈は、何をしてたの?」
木村先生は、かつての佳奈のピアノの師だ。才能を誰よりも信じ、いくつものコンクールを勧め、演奏交流会にも連れていってくれた。
「佳奈は必ず世界の舞台に立つ」
そう言って、次世代として育てようとしてくれていた人。
なのに佳奈は、薄井礼央を庇って左手を傷め、そのまま薄井礼央と結婚した。式には木村先生も招きたかったが、薄井礼央は「大勢に知らせたくない」と言った。だから諦めた。
結婚してしばらくすると、左手の神経は目に見える速さで萎縮していった。受け入れられず、投げやりになり、木村先生とも自然に疎遠になった。
それでも、再会した木村先生は変わらず彼女を気にかけてくれる。
佳奈の胸に罪悪感が押し寄せ、目の奥がつんと痛んだ。
「木村先生……ご心配をおかけしました」
木村先生は首を振る。
「何を言ってるの。秘蔵っ子として預かった以上、心配して当然でしょう。でもね、佳奈。これからも家に入って主婦をやるつもりなの?」
木村先生は、左手のことをまだ知らない。佳奈が恋のために道を捨てたのだと、そう思っているのだ。
佳奈は酸っぱく滲む視界のまま、まっすぐに答えた。
「主婦なんて、なりたくありません。海外のルノワール音楽院から合格通知をいただきました。もうすぐ向こうで学びます。……過去の自分を、拾い直したいんです」
木村先生の目が大きく見開かれ、喜びと誇りが一気に溢れた。
「ルノワール音楽院は、誰でも入れる場所じゃないの。選ばれた人間だけなの。さすが私の教え子……その意地、いいわ。どんなことがあっても、先生は佳奈の味方ね」
それから木村先生は、近くのレストランでゆっくり話そうと佳奈の腕を引いた。だが途中でふと何かに気づき、視線が下へ落ちる。
佳奈の萎縮した左手。
木村先生の顔色が、さっと変わった。
「……手。どうしたの、それは」
先ほどまでの喜びが凍りつき、声が震える。
佳奈は小さく笑った。
「……一言では言えません」
木村先生の目に痛ましさが走る。それでも佳奈の手を離さず、モールを出てレストランへ連れていった。
「いいか。今日は、ここ数年のことを全部話せるの。包み隠さずね」
レストランに腰を落ち、佳奈はこの数年をかいつまんで語った。ただし、薄井礼央を庇って怪我をしたことだけは伏せる。
「誰かを助けようとして……それで」
それだけ。
木村先生は聞き終えると、拳を握りしめるようにして言った。
「佳奈は……なんて馬鹿なの。人を助けるために、自分をここまで壊して……佳奈の手が、どれほど大事か分かっているの」
佳奈は唇を結び、穏やかに笑う。
「もう過ぎたことです。今の私は、これからの生活を始めるところですから。先生、そんなに心配しないでください」
木村先生が何か言いかけた、そのとき。
遠くから、二つの人影がこちらへ近づいてくる。
「木村先生、お久しぶりです。前にお会いしてから、もう半年になりますかね」
