第8章 夫を亡くす
名取佳奈は顔を上げ、薄井礼央と須藤唯がこちらへ歩いてくるのを見て、ふっと可笑しくなった。
神様って、本当に意地の悪い冗談が好きだ。
たかがショッピングモールで――まさか薄井礼央と須藤唯に、今日だけでもう三度目の遭遇だなんて。
「須藤唯さん、ですよね? あら、ずいぶん久しぶりね。つい先日も、君の先生と電話で話したばかりなのよ。今日こうして会えるなんて、本当に偶然だわ」
そう言いながら、木村先生の視線が、唯の隣に立つ薄井礼央へと移った。
「こちらは……ご主人さん?」
その一瞬、薄井礼央と須藤唯の表情が硬くなる。
対照的に、名取佳奈は涼しい顔のまま、口元にだけ笑みを浮かべた。
須藤唯が帰国してからというもの、彼女はあの手この手で「自分と薄井礼央の関係」を周囲に匂わせてきた。薄井礼央も、否定しない。
――なら、正妻の目の前で、あなたはどこまでやるの?
数秒、場の空気が沈む。
須藤唯は薄井礼央へ身を寄せ、当然のように腕に絡みついた。にこやかな笑みを貼りつけて。
「はい。こちら、私の夫です。今日は主人が、私に贈り物を選びたいって言ってくれて」
そう言いながら、須藤唯は視線の端で名取佳奈をなぞる。薄く滲む優越と、あからさまな挑発。
それでも薄井礼央は、終始沈黙したままだ。訂正も、弁解も、ひとつもない。
名取佳奈は向かいの席で二人を見つめた。胸を見えない手で握り潰されているみたいで、息が詰まる。
並べばたしかにお似合いだ。
……私さえいなければ、薄井礼央と須藤唯は、もうとっくに元に戻れていたのかもしれない。
それなのに、まだ離婚もしていないうちから、ここまで堂々とやってみせるなんて。
自分から「夫婦の間に割って入る女です」と名乗っているようなものだ。
沈黙の中、薄井礼央の黒く深い視線が名取佳奈を射抜いた。
名取佳奈の表情は異様なほど静かで、波ひとつ立っていない。
――昔なら、とっくに騒いでいたはずだ。
今日の彼女は、どうしてこんなに大人しい?
木村先生は三人の間に流れる刺々しい空気に気づかないまま、朗らかに二人へ座るよう促した。
「さあさあ、どうぞ。紹介するよ。こちらは名取佳奈。私が昔教えていた生徒でね」
須藤唯と薄井礼央の視線が同時に向けられる。
名取佳奈は淡く微笑んで、きっぱりと言った。
「はじめまして」
そのよそよそしい声に、薄井礼央の眉間がわずかに寄る。胸の奥に、ざらりとした不快感が広がった。
長年夫婦でいながら、目の前の女は平然と「他人」の顔をする。
――本気で離婚するつもりなのか。
須藤唯も表面だけ取り繕い、挨拶を返す。
「名取さん、はじめまして。木村先生からお名前は伺っていました。ご結婚されてるって。今日はお一人で? それともご主人とご一緒ですか?」
名取佳奈のコーヒーカップが、ふと止まった。反射的に薄井礼央を見る。
だが薄井礼央は、その視線を受け止めない。顔をそらし――まるで、そこにいるのが「妻」ではないみたいに。
名取佳奈は、内心で乾いた笑いをこぼした。
結婚してから、彼は外で自分を妻だと紹介することなんて、ほとんどなかったくせに。
いまは平然と、須藤唯の夫として黙っている。
……そうだよね。
障害のある妻より、将来があって、華やかな女のほうがいい。男なら誰だって。
名取佳奈は口角をゆるく上げ、須藤唯の得意げな視線を真正面から受け止める。そして、一語一語、丁寧に言い切った。
「残念ですが、私の夫は亡くなりました」
カチン――
言い終えた直後、ガラスが割れるような音がした。
名取佳奈はもう一度、薄井礼央を見る。
薄井礼央は陰った目で彼女を睨みつけていた。明らかな不快。彼の手の中のコーヒーカップには、細い亀裂が走っている。
――正気か?
生きてここに座っている人間を、死んだことにするなんて。
目の前にいるのに、見えていないふりをするのか。
薄井礼央は薄い唇を固く結び、鼻で笑うように息を吐いた。
「俺の見間違いじゃなければ、さっきお前は『ご主人』と一緒にいましたよね。そんなふうに夫を呪うようなことを言って、心が痛まないんですか」
心が痛む?
それを言うなら――痛むのは、こっちじゃないの。
名取佳奈は、幸せな結婚が手に入ると思っていた。けれど薄井礼央は、五年間、彼女を冷たく遠ざけた。
それでも彼女は諦めなかった。努力すれば、いつか彼の気持ちが変わるかもしれないと信じてきた。
結果は……この有様だ。
名取佳奈には分からなかった。
薄井礼央が愛しているのは須藤唯なのに、どうして自分の一言に、そんなに腹を立てるのか。
自分が薄井夫人の座を降りれば、二人は堂々と一緒になれる。
それでいいじゃない。
名取佳奈は唇の端を引いた。
「すみませんが、目を開けたまま嘘をつかないでください。私の夫を見たとおっしゃるなら、連れてきていただけます?」
連れてこられるはずがない。
――薄井礼央、それがあなた自身なのだから。
薄井礼央は顔をさらに険しくし、握った掌を強くしては緩めた。胸の奥のざわつきが、増していく。
これは、わざと拗ねて見せているのか?
自分が否定しなかったのは、須藤唯の立場を潰さないため――ただそれだけなのに、それでも名取佳奈は噛みつくのか。
ここでようやく、木村先生も違和感を覚えたらしい。
「君たち、もしかして以前から知り合いなの?」
名取佳奈はすっと視線を引き、即座に首を振った。
「いいえ。存じません」
あまりにきっぱり切り捨てられ、薄井礼央の顔色がさらに沈む。
――そこまでして、俺と関わりたくないのか。
その後、木村先生は二、三言ほど場をつないだが、用事があると言って席を立った。
名取佳奈も長居する気はなく、立ち上がろうとする。
すると須藤唯が、急に殊勝な声を出した。
「佳奈さん、さっきは私も混乱してて……変なことを言ってしまって。怒ってますか? よかったら、何かプレゼントを買ってお詫びさせてください」
名取佳奈の目が冷える。
「やったことは消えない。謝ったら済むと思ってるんですか」
一拍置いて、言葉を鋭く落とした。
「本当に混乱してるなら、病院で頭の検査でも受けたらどうです? このまま外を歩いたら、あなたが『他人の夫を狙う浮気相手』だって、誰かに誤解されますよ」
須藤唯の顔が、屈辱でさっとこわばる。瞳の奥に、醜い感情がちらついた。
テーブルの下で、細く尖った爪が肌に食い込むのが見えた気がした。
須藤唯が言い返すより先に、薄井礼央が立ち上がった。目つきが暗い。
「お前、言い方ってものがあるだろ。俺と唯は友人だ。なのに『浮気相手』だと決めつけるのか? 俺と関わる女は全員不倫相手、そういう発想しかできないのか。狭量すぎる」
……やっぱり。
須藤唯が少しでも傷つけば、薄井礼央はすぐ庇う。
そのくせ自分が薄井家で受けてきた屈辱や苦しさは、須藤唯どころじゃなかったのに。
夫は――一度だって、自分の味方になってくれたことがない。
