第99章 後悔しない

名取佳奈は、何年も過ごした寝室を最後にひと目だけ見渡した。そこに未練は一片もない。スーツケースの取っ手を握り、音を立てぬよう扉を開ける。階段を一段ずつ降りていく足取りは静かで、それでも揺るがない。

別荘の大門も、そっと閉めた。誰ひとり起こさないまま。

空がゆっくりと白みはじめ、東の端に魚の腹のような淡い光が滲む。朝の風はひんやりとして頬を撫で、胸の奥まで澄みわたった。――自由の匂い。

少し離れたところから、黒いセダンがすうっと近づいてきて、彼女の前で滑らかに停まった。

運転席から降りてきた陸野雲平は、飾り気のない服装で、相変わらず穏やかな空気をまとっていた。名取佳奈を見ると、目元にや...

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