第4章
貴志視点
椅子に座って十四時間、胡桃の青白い顔を見つめ、心電図モニターの規則正しいビープ音を聞き続けていた。
看護師がまた点滴をチェックしに来て、同情的な視線を俺に向ける。「お疲れ様です。一度お家に帰って休まれた方がいいですよ。彼女さんが目を覚ました時、元気なお顔を見せてあげてくださいね」
彼女? 俺は訂正しなかった。
午後二時三十分、すべてが変わった。
胡桃の瞼が震え、ゆっくりと開かれる。その緑色の瞳が虚ろに辺りを見回し、やがて俺の顔に焦点を結んだ。
「ん……」彼女の声は囁き声のようにか細い。「ここは……どこ?」
心臓が止まるかと思った。「病院だ。怪我をしたんだ。でも、もう大丈夫だ」
彼女が身を起こそうとするのを、俺はすぐに手を伸ばして支えた。彼女は俺の体に触れられても、それを振り払おうとはしなかった。そのことに、希望と罪悪感の両方がこみ上げてくる。
「すみません!」俺は大きな声で叫んだ。
数分後、白髪の医者が部屋に入ってきて、胡桃の瞳孔反応を調べ始めた。「気分はいかがですか」
「頭が……痛いです」彼女は眉をひそめる。「何があったのか、思い出せなくて。というか、何も……」声はどんどん小さくなり、瞳にパニックの色が浮かぶ。「何も、思い出せないんです」
医者は頷き、真剣な表情を浮かべた。「脳震盪による一時的な記憶障害と思われます。頭部に衝撃を受けた際の脳の損傷が原因です」
「記憶は戻るんでしょうか?」俺は尋ねた。
「徐々に回復していくことが多いのですが……」医師は言葉を選ぶように続けた。「個人差があり、完全な回復には時間がかかる場合もあります。ただし、脳には可塑性という回復能力がありますので、適切な治療で改善が期待できます」
胡桃が俺の方を向く。その瞳は混乱と不安に満ちていた。「あなたは……私の知っている人ですか?」
人生で最も重要な瞬間だった。真実を告げることもできた。
あるいは……。
「俺は松本貴志だ」俺は深呼吸を一つして言った。「君の、彼氏だ」
彼女の眉がわずかに上がる。「彼氏?」
「ああ」口の中がからからに乾く。それでも俺は嘘を紡ぎ続けた。「もう一年以上、付き合ってる」
彼女は俺の顔を吟味するように見つめ、何か馴染みのあるものを探しているかのようだった。「あなたのことは……思い出せない。でも……」彼女は言葉を切り、「危険な感じはしない」
君本能が分かっているからだ。俺が君を傷つけることなんて絶対にないって、たとえ記憶がなくても。
医者が再度彼女の容態を確認し、退院できると告げた。二人きりになると、胡桃は俺の瞳をじっと見つめてきた。
「どうしてこんなに……変な感じがするんだろう? そんなに長く一緒にいたなら、あなたの顔を見ても何も思い出せないなんてこと、あるのかな」
俺はスマホを取り出し、楓を迎えに行った時の写真――胡桃もたまたま一緒に写っていた、ごく普通のやり取りの写真――までスクロールした。
「これは幼稚園での俺たちだ」俺は、楓がカバンを詰めるのを胡桃が手伝い、その傍らで俺が微笑んでいる写真を指差した。「君はいつも、特に楓に優しかった」
彼女はその写真を注意深く見つめる。「これ、本当に私?」
「ああ」俺は別の写真にスクロールした。「これは先月、公園で撮ったやつ」
「どうしてこんなに……距離があるように見えるの?」彼女は鋭い。「ハグもしてないし、恋人同士みたいに見えない」
心臓が跳ねたが、答えは用意してあった。「秘密にしてたからだ。他の保護者たちに噂されたくなかったんだろ。先生とシングルファーザーの関係なんて、人がどう思うか分かるだろ」
彼女は頷いた。その説明はもっともらしく聞こえたようだ。「私たち……本当に、ずっと一緒にいたの?」その声には、誰かに心から愛されていることを願うような、切望の色が滲んでいた。
「ずっとだ」俺は優しく言った。「君は、俺が今まで出会った中で一番優しくて、美しい女性だ」
これは嘘じゃない。心の奥底で、決して認める勇気のなかった真実だ。
彼女は頬を染め、手の中の写真に視線を落とした。「私、幸せそう」
「君はいつも幸せそうだったよ」俺は言った。「特に、楓と一緒にいる時はな」
「楓ちゃん……あなたの娘?」
「俺たちの娘だ」俺は訂正した。「君は自分の子供みたいに、あの子を愛してくれてる」
彼女の瞳が潤んだ。「私って本当に……本当に、そんな人間なの?」
「世界で一番素敵な人間だよ、胡桃」
午後六時、俺は彼女を自分のアパートに連れて帰った。
ドアを開けると、彼女は玄関口に立ち尽くし、俺の家を見てショックを受けていた。壁には俺が描いたタトゥーのデザイン画が掛かり、コーヒーテーブルにはスケッチパッドが散らばり、空間全体がアーティスティックな雰囲気に満ちている。
「このタトゥーのデザイン……」彼女は壁に掛かった特に複雑なデザイン画に歩み寄る。「綺麗。あなたが描いたの?」
「ああ」彼女が俺の作品を感心して眺めるのを、複雑な感情を胸に抱きながら見つめた。
「私……アートは好きなの?」
「俺に惹かれた一番の理由がアートだって言ってた」喉が締め付けられる。「俺の絵は、見てると心が安らぐっていつも言ってた」
彼女はこちらを振り返った。その瞳には、今まで見たことのない優しさが宿っていた。「ここにいると……安心する。看病してくれて、ありがとう」
こんなにも俺を信じているのに、俺はいったい何をしているんだ?
「君の部屋はあっちだ」俺は客間を指差した。「記憶を取り戻すには、一人の空間が必要だと思って」
彼女は頷いたが、客間のドアの前で立ち止まった。「貴志さん?」
「ん?」
「過去を思い出せなくても、あなたが善い人だってことは感じられるから。何があっても、それだけは知っておいてほしい」
胸を殴られたような衝撃を受けた。「胡桃……」
「おやすみ」彼女は柔らかく言うと、部屋の中へ消えていった。
俺はリビングルームに立ち尽くし、彼女の部屋のドアを見つめながら、自分が世界一のクソ野郎だと感じていた。
十時、彼女が眠ったのを確認してから、俺はソファに座って頭を抱えた。スマホが振動し始める。
黒木涼介。
画面で点滅する名前を見て、彼の不安そうな顔を想像する。きっと後悔しているのだろう。白井静香のことから胡桃を守るべきだったと。
だが、もし俺がこの電話に出たら、もし真実を話してしまったら、この全ては終わる。胡桃は記憶を取り戻し、俺をどれだけ嫌っていたかを思い出し、白井静香が彼女を傷つけようとしていることも思い出すだろう。
彼女はまた危険に晒される。
俺は客間のドアを一瞥した。彼女はあの中にいる。安全で、俺を信じ、俺に依存している。もしかしたら……これは詐欺なんかじゃない。これは、やり直しのチャンスなのかもしれない。
電話は鳴り続けている。
俺は、選択をした。
通話を切り、スマホの電源を落とした。
もう、後戻りのできない道を進んでしまったのだ。
