第1章
私は夫の西村瑛太に、今週末は出張だと告げた。彼はスマホから目も上げずに「了解」とだけ言った。
車を走らせて二時間ほどしたところで、親友の詩織から電話が入った。詩織の家はこの別荘地一帯の不動産を管理している。三代続く家業だ。
「ねえ」詩織の声には、慎重に言葉を選んでいる尖りがあった。「今日、別荘にチェックインがあったの。あなたの名義で。でもね、ナンバーを調べたら……車道に停まってる車は西村建築設計事務所名義だった」
その別荘は祖母が亡くなってからずっと私のものだ。玄関脇の表札には、いまだに祖母の名前が残っている。チェックインの手続きは私の名義経由で、瑛太は管理サイトのログイン情報を知っていた。二年前、私が会議中に暖房業者との約束を確認してくれたことがあって、そのときに渡したのだ。あれからパスワードを変えていない。変える必要があるなんて、思いもしなかった。
「今日、配達が二件あった」詩織が言う。「どっちもあなたの名義。午前中はロマンチック系のセット。シャンパンに花にキャンドル。それで午後は薬局の注文」一拍置いて、低くなる。「アフターピル。置き配の前に住所確認が必要だって、うちに連絡が来たの」
私は瑛太に電話をかけた。
二回目の呼び出しで出た。「もしもし、どうした?」
「詩織が言ってる。誰かが私の名義使って別荘にいるって」
「ふーん。それ、システムのエラーじゃない? 別荘の管理サイトアプリ、ここ何か月も不具合出てるって言ってたし。俺から電話して整理するよ」
答えは用意されていた。ためらいも、驚きの声もない。ただ、最初から組み立ててあったみたいに滑らかな説明。
「車道の車」私は言った。「あなたの事務所名義だって」
沈黙。
「帰ったら説明する」彼が言った。
私は通話を切り、詩織にかけ直した。
「今からそっち行く」私は言った。「誰にも何も言わないで。車が動いたら、それだけ教えて」
「麻衣――」
「三時間」私は言った。「着くから」
鍵はバッグの中に入っていた。
車を停めると、青い家の近所の女性が庭に水を撒いているところだった。彼女は微笑みかけてきた。
「あら、よかった。さっき、あなたのお友達が入り江へ続く小道について尋ねてこられたのよ。可愛らしいお嬢さんね」
私も笑って返した。「それはどうも」
私は自分で鍵を開けて中に入った。ソファの肘掛けには誰かのジャケットが投げてあり、キッチンカウンターにはシャンパン。半分ほど減っている。そして、匂いだ。重くて、上等で、意識するより先に身体が思い出す匂い。半年前、瑛太の事務所のクリスマスパーティー。彼の隣に長谷川千秋が立ち、彼の言葉に声を上げて笑っていた。
私は踵を返し、玄関のほうへ目をやった。
祖母のカーディガンが、いつも通りフックに掛かっている……はずだった。色あせたクリーム色、ボタンが一つ欠けていて、三十年分の夏を経て、くったりと柔らかくなっている。祖母が亡くなってから、誰もそれを動かさなかった。
それが、誰かの肩に乗っていた。
廊下の奥から女性が出てきた。若くて、きちんとしていて、何もかもを当然みたいに綺麗にこなしてしまうタイプ。状況を一瞬で把握し、すぐに表情を整える。
「何かご用ですか?」自分に尋ねる権利があるとでも言うように。
「鍵を持ってます」私は言った。
「この別荘は今週末、プライベートで利用中なんです」きっぱりしていて、理屈も通っていて、丁寧で、動かない。「このあたりで貸しをお探しなら、近くにいいところがいくつかあります。連絡先もお教えできますよ」
祖母のカーディガンを着た男の愛人が、この私に向かって、他を当たれと言っているのだ。
「ここは私の家です」私は言った。「登記名義も私。あなたが着てるそれは、私の祖母のもの」窓のほう、車道のほうへ視線を流す。「それに外の車は、私の夫の車」私は彼女に目を戻した。「だから、あなたが誰で、ここで何をしていて、いつからこういうことをしているのか――全部、話してもらう」
