第2章

 翌朝、会社のエレベーターで偶然にも高村莉央と乗り合わせた。

 彼女は今季のグッチの新作であるシルクシャツを身に纏い、胸元を大きく開けて、首にはスカーフを巻いている。

 私に気づくと、彼女は無邪気で甘い笑顔を向けた。

「冴さん、おはようございます」

「おはよう」

 私は階数ボタンを押し、何気ないふりをして彼女の首元に視線を走らせた。

 そのスカーフの巻き方は、いかにも不自然だった。

「冴さん、蓮さんの個展、来月ですよね? すごく楽しみ。彼は本物の天才ですもの」

 莉央の瞳には崇拝の色が浮かんでいる。彼女が身を乗り出すと、鼻をつく香水の匂いが漂ってきた。

 ルラボのサンタル33。

 成瀬蓮が最も愛用している香りだ。「芸術の沈殿を感じさせる」と彼は言っていた。

 どうやら沈殿どころか、すっかり漬け込まれてしまったらしい。

「ええ、天才ね」

 私は口角を上げ、意味深長な視線を彼女に向けた。

「でも、天才には往々にしてミューズが必要なものよ。今回の彼のインスピレーションの源泉が誰なのか、気になるところだわ」

 莉央の瞳が一瞬揺らぎ、無意識のうちに首のスカーフに手が伸びる。

「芸術家ですもの、インスピレーションなんてどこにでも落ちているんじゃないですか?」

 エレベーターの扉が開く。

 私は先に降り、大理石の床にヒールの音を響かせた。

「そうそう」

 足を止め、振り返って彼女を見る。

「そのスカーフ、素敵な色ね。でも、コンシーラーが少し浮いてるわよ」

 莉央の表情が凍りつき、慌てて首元を押さえるのが見えた。

 オフィスに戻り、PCを開いて成瀬蓮の個展に関する財務諸表をすべて呼び出した。

 あらゆる支出、あらゆる協賛金は、すべて私の手を通っている。

 蓮は自分の才能が資本を惹きつけたと思っているようだが、それら「評価」のすべては、私が企画書を片手に一社ずつ頭を下げて回って勝ち取ったものだ。

 莉央の父親からの協賛金も含めて。

 スマホが振動し、蓮からの着信を告げる。

「もしもし、冴? 昨夜は一晩中描いてて死にそうだよ。昼にあの隠れ家和食のスープ、頼めないかな? 精をつけたくてさ」

 寝起き特有の掠れた声。いかにも疲弊しているという演技だ。

 以前なら、私は胸を痛めてすぐに手配し、自ら届けていただろう。

 だが今は、ただ滑稽なだけだ。

 彼は確かに疲れているだろう。だが、絵を描いて疲れたわけではない。

「いいわよ」

 私は優しい声色を作る。

「ちょうど昼にクライアントと会う予定があるから、ついでに届けてあげる」

 電話の向こうで、明らかに一秒の沈黙があった。

「あ……いやいや! いいよ! 冴も仕事忙しいだろ? デリバリーで十分だから。それに今アトリエが散らかってて、絵の具の匂いもすごいし、君をそんな目に遭わせたくないんだ」

 焦っている。

 何を恐れている? 空気中に残るサンタル33の香りか、それとも片付ける暇もなかった情事の痕跡か。

「わかった、じゃあデリバリーにするわね」

 私は従順に答えた。

 通話を切ると、いつも使っているバイク便の青年に送金し、メッセージを送った。

『アトリエのドア前に置いてきて。もし誰も出てこなかったら、玄関に赤い底のハイヒールがあるか見ておいて』

 三十分後、彼から返信が来た。

『姐さん、靴はなかったっす。でもドア前のゴミ箱にウーバーイーツの袋があって、朝食二人分でした。表参道のあの行列ができるパン屋のやつっぽいっす』

 あの大人気ベーカリー。莉央が一番好きな店で、買うには二時間は並ぶ必要がある。

 徹夜で絵を描いていた人間に、行列に並んで朝食を買う体力なんて残っているはずがない。

 成瀬蓮、その溢れんばかりの精力には感動すら覚えるわ。

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