第64章

蒼司は声を潜め、恐る恐る身をかがめると、未来の耳元に唇を寄せた。かつてないほど優しい声音で、一言一句、噛み締めるように語りかける。

「未来、こっちを見ろ。俺だ、蒼司だ。お前の夫だぞ」

熱を帯びた吐息が、彼女の敏感な鼓膜を震わせる。その低く、安らぎに満ちたテノールは、幾重にも立ち込めた霧を切り裂き、彼女の混濁した意識の底に一筋の光を投げかけた。

「いい子にしてろ、な?」

蒼司……。

夫……。

未来の思考回路は錆びついた歯車のように軋みを上げながら、辛うじてその名前を紡ぎ出した。

「……蒼司」

言葉が届いたと見て、蒼司は彼女の手首を戒めていた力を緩めた。

だが次の瞬間、解放され...

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