第2章
瞳孔が、きゅっと縮んだ。
――この男は、私の子の臓器を競売にかける気だ。
この競売会は、ただの屈辱じゃない。
子どもを「喰う」ための場。
喉はとうに潰れていたのに、それでも叫んでしまう。
「やめて! それ、あなたの子よ!」
「俺の子?」
藤原創は、まるで汚物でも見るみたいな目をした。冷たく、薄い嫌悪を貼りつけて。
「羊水検査はもうやらせた。この野種は俺のじゃない」
「幸子の薬引きになるから生かしてやっただけだ。生まれたなら、生まれたで……使い道があるだろ」
江原朱美は、ただ見ていることしかできなかった。
藤原創が赤ん坊を医師に渡す。喉に何かを詰め込まれたみたいで、声が一切出ない。
違う。
私には、ほかの男なんていない。
この子は藤原創の子だ。間違いない。
言いたい。ほどきたい。逃げたい。
けれど、指一本すら思うように動かなかった。
――忘れられたみたいだった。
裸のまま鳥籠の中。周囲にいる連中の笑い声だけが、悪魔みたいに耳を削る。
どれほど時間が過ぎたのか。
小さな襁褓が、競売台の上に置かれた。
その頃には意識が霞んでいた。寒さのせいか、産んだあと何の処置もされないせいか――身体の芯から熱が抜けていく。
このまま子どもと一緒に死ねるなら。
それでも、いい。
意識が沈み、霧になって、宙を漂う。
散っていくのを待つ。
死が来るのを待つ。
だが数時間後、鈍い痛みは消えるどころか、さらに凶暴になった。裂けた下腹が巨大な獣みたいに私を呑み込み、今すぐ死にたいほど痛い。
周囲で、ひそひそと囁きが交わされる。聞かせまいとしているのか、蚊の羽音みたいに小さい。
「麻酔なしで……心臓、直接えぐったって」
「血が床一面で止まらなくて……惨いよな」
胸に刃を突き立てられた気がした。
しかもその刃を握ったまま、押し込み、捻り、心臓をぐちゃぐちゃに潰されるみたいに。
江原朱美は跳ね起きた。下から血がどくどく流れているのも構わず、叫ぶ。
「子ども……私の、息子は……?」
自分の声が異様だったのだろう。医師たちの顔色がさっと変わった。
長く仕えていた使用人が眉をひそめ、半膝で寄ってくる。
「奥様……ご気分は。若様はご不在で……いま縄を――」
「子どもはどこ! 返して!」
離婚でも何でもする。二人を祝福してやる。
だから、子どもだけは返して。
力が抜け、床に膝をついた。縛られていた両腕は血の気がなく、真っ白だ。
ほとんど懇願だった。
「藤原創に会わせて……」
会えるなら、何だってするのに。
「若様は幸子さんにお付き添いで……少しお待ちに――」
「聞こえないの? 死ねってこと?」
床に落ちていた注射針を掴み、喉元へ突き立てた。
針先が皮膚を割り、動脈を傷つける。濃い血の匂いが立った。
「やめてください! いま、ご案内します……!」
使用人に支えられ、江原朱美は薄暗い廊下を引きずられていく。
ここは藤原創の私設病院。
江原幸子のためだけに建てられた場所だ。
贔屓は、壁の隅々にまで染みついている。
気づくのが遅すぎた。
分かったときには、私は子どもも――自分の命さえ差し出す羽目になっていた。
院内に患者の気配はほとんどない。歩いても医師の影すら見えない。
胸を押さえ、唇を噛みしめる。心の奥に、まだ小さな望みが残っていた。
親子鑑定さえすれば、この子が藤原創の子だと分かる。
どれほど冷酷でも、自分の骨肉を自分の手で殺すはずが――。
そうだ、脅しだ。
きっと脅しなんだ。
使用人が、薄い灯りの漏れる部屋の前で立ち止まる。
「奥様、ここは――」
言い終える前に、江原朱美は突進していた。
だが中にいたのは、江原幸子だけだった。
目の前には保育器。中は見えない。ただ、彼女の口元がわずかに持ち上がっている。薄暗く、歪んだ笑み。
「江原幸子……」
声は弱くても、決めていた。
保育器の中身は私の子だ。でなければ、彼女がここにいる理由がない。
殺される。奪い返さないと。
江原幸子がゆっくり振り返る。腰までの長い髪が、薄黄の灯りで揺れて、蝶の羽みたいに舞う。
青白い肌。淡い桜色の唇が、かえって儚さを強調して――守ってやりたくなるように見せる。薄っぺらい演出。
「朱美お姉さん、どうしたの? 身体、平気?」
その白々しさに吐き気がした。
「子どもを返して」
江原朱美は、できる限りの譲歩を差し出す。
「藤原創は、あなたに譲る」
「譲る?」
江原幸子は身を斜めにし、痩せた指で保育器のカーブをなぞるように滑らせた。
その仕草ひとつで、心臓が縮む。
「私に、あなたが譲る必要ある?」
不気味に笑い、小腹を突き出した。
「あなたは子どもがいても創の心を繋げなかった。なのに私は――ここにいる。創は、私のお腹の中よ」
「嘘……。騙すな……」
「騙す意味がある?」
江原幸子が身体を退ける。
保育器は、空っぽだった。
優しい声で、徹底的に折りにくる。
「最初から、創はあの子を生かすつもりなんてなかったの」
「そんな……あれは、彼の子よ……!」
江原朱美は壁伝いに崩れ落ちた。下腹の傷がまた裂ける感覚。
でも、胸の痛みに比べれば――。
憎いからって、ここまでできるのか。
命だ。生きていた人間だ。
「江原朱美。そこまで堕ちても、まだ嘘を言うの?」
江原幸子はいつの間にか目の前にいた。哀れみと嘲笑を混ぜた視線で見下ろす。
「藤原玄哉、あなたを抱いたでしょう? よく平気で言えるわね」
「違う……藤原創と一緒になるとき、私は……初めてだった……!」
誰も信じない。
最初の男は、藤原創だったのに。
首がもげるほど首を振る。
江原幸子は胸の奥から冷たく笑い、残酷に言い放つ。
「結果は出てる。あの子と藤原玄哉の一致率、99%」
「……あり得ない……」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。
勝者の顔で、江原幸子は顎を持ち上げた。幸灾楽祸の笑み。
「全身は残ってない。でも急げば、残骸くらいは見つかるかもね。どこに捨てたっけ――ああ、狼の檻だった。創は狼が大好きでしょ。食べてもらえるなんて、あなたの息子、幸せね」
「――ぁ……っ!」
喉の奥から壊れた声が漏れた。次の瞬間、叫びが噴き上がる。
「この狂女! 殺してやる……殺してやる!」
