第3章
江原朱美は江原幸子の喉元を容赦なく掴み上げ、千切り刻んでやりたいほどの憎悪を叩きつけた。
「てめえらみたいな畜生、まとめて死ね!」
理性なんて残っていない。本能だけで、全身の力を幸子に押しつける。
――だが、江原幸子は最初から構えていた。
触れた、その瞬間だった。
屈強な男が二人、部屋へ雪崩れ込み、朱美の身体を乱暴に引きはがす。
「――っ」
ぱきり、と嫌な音がした。
腕を、わざと折られた。
痛みが電流みたいに走り、身体の隅々まで焼ける。男たちは朱美を押さえつけ、折れた腕を掴んだまま揺さぶる。視界がぐらつき、膝が抜けそうになる。
江原幸子は勝ち誇った顔で笑った。
「朱美お姉さん、落ち着いて。子ども一人でしょ? 上手くやれば、また何人でも産めるわ。でも次は気をつけてね。創君にバレたら――今よりもっと惨い目に遭うだけ」
「クズ……!」
朱美が再び飛びかかろうとした、そのとき。
腕を押さえていた男が、片手を朱美の腰へ回す。
次の瞬間、同じ側の足首を、容赦なく踏み砕いた。
「――あぁぁっ!」
痛みで意識が飛びかける。血が太腿をつたってどくどく落ち、産後の残滓まで混じって、生臭く鉄の匂いが鼻を刺した。
外の野犬のほうが、まだましだ。
その惨めさが、幸子をさらに昂らせた。ねっとり濡れた視線が、虫みたいに朱美の身体を這い回る。
「精神病みたいね。前の治療、効かなかったのかな――もう一回行かなきゃ」
精神病院――。
ぶつり、と記憶が繋がる。電撃、水牢……断片だった悪夢が、いま、生々しい現実になって襲いかかってきた。
逃げたいのに、砕けた足が言うことをきかない。
「……ふざけるな。二度と戻らない……!」
朱美の抵抗など、幸子は聞く耳すら持たない。どこか懐かしむように顎を上げ、愉悦に浸った声で言った。
「あなたが出てくる頃、あの狼たちがまだ生きてるといいわね。祈りなさいよ。じゃないと、どこであなたの子に会うの?」
小さく笑い、続ける。
「でも聞いたわ。あなたの息子、臓器はいろんな人の役に立ったんですって。探せるなら会いに行けば? 少しは慰めになるかもね」
「死ね……死ね……!」
朱美の身体は硬直し、唇の端から血が垂れた。舌を噛み切ったのだ。
憎悪が皮膚を突き破りそうで、目が痛いほど幸子を睨みつける。
こんな日が来ると知っていたなら。
死んだほうがましだった。朱美は、藤原創と結婚なんてしなかった。
愛した男が――子の父親が。
臓器を競売にかけ、死体を狼に喰わせ、欠片ひとつ残さないなんて。
お前らは死ぬ。必ず。
喉が裂けるほど叫ぶ。
「畜生ども! 報いを受けろ……あ……あ……!」
言葉にならず、嗚咽だけが漏れる。
「そう? でもね――」
江原幸子が、快楽に浸った顔で言う。
「先に報いを受けたのは、あなたじゃない?」
薄く笑い、刃物みたいに言葉を重ねた。
「江原朱美。前世でどれだけ罪を重ねたの? 子どもは守れないし、お母さんまで死なせた」
朱美は顔を上げる。信じられない。声が出ない。喉の奥で、かすれた呼気が鳴るだけ。
幸子は楽しそうに目を細めた。
「まだ知らないの? 昏睡だったあなたのお母さん、今日目を覚ましたの。本当はあなたに会いに来たがってたけど――私が言ったのよ。あなたが医療費のために必死で苦労してるってね」
そして、口元を歪める。
「ついでに、あの動画も見せた。あなたが男に抱かれてるやつ。『お母さんのため』だって言ったらさ――迷惑かけたくないって、自分で酸素を抜いたの。ねえ、馬鹿みたいでしょ。はは、ほんと愚か」
「……母さん……」
泣いているのか、笑っているのか。朱美自身にももうわからない。
涙が溢れて視界が滲み、世界が裏返る。冤罪のまま逝った母の目が、ありありと浮かんだ。
「どうして……会わせてくれなかった……」
砕けた喉から、血を吐きながら絞り出す。
「会ってどうするの?」
幸子は鼻で笑う。
「どうせ創君に泣きつくでしょ。なら死んだほうが早いじゃない」
その眼差しに、露骨な嫌悪が滲む。
「でも驚いた。あなたのお母さん、株をたくさん持ってたのね。本当は見逃してもよかった。でもね、あの人、頑としてあなたに譲るって言い張った」
ゆっくり、楽しむように告げる。
「あなたのセックス動画がネット中に拡散して、名声は地に落ちてるのに。病気であの状態でも、あなたを守りたかった。ねえ、死んで当然でしょ? あなたのお母さんも。あなたも」
株のために、母を――?
藤原創のことは脇に置いたとしても。
江原幸子の父親と朱美の母は、血の繋がった兄妹だ。家族のはずなのに。
どうして、ここまで。
朱美の目を無視するみたいに、幸子は身をかがめ、耳元へ囁いた。
「姉妹のよしみで、最後に一目だけ会わせてあげる。死ぬ直前まであなたの名前呼んでた。行く?」
罠だとわかっている。
それでも――飛び込むしかない。
息子はもういない。母の最期だけは、失いたくなかった。
朱美は屈辱のまま、かすかに頷いた。
幸子が合図すると、男たちが寄ってたかって朱美の服を脱がせ、着せ替えていく。
向けられる視線は欲に濡れていた。
けれどもうどうでもよかった。見たければ見ればいい。動画はとっくに、世の中にばら撒かれている。
壊れた人形みたいに扱われる。黒いドレス、靴、派手な飾り。
そして最後の最後、幸子は笑って言った。
母の葬儀に――いちばん惨めな格好で出ろ、と。
情趣下着。首輪。鈴。
すべてが嘲笑と屈辱のための小道具だった。
車椅子に押し込まれ、葬儀場へ入った瞬間、視線が突き刺さる。
「なんで来た?」
「母親を祟り殺したって噂の……よく葬式に出られるな」
「藤原様は? 女にそんな格好させて、恥もないのか」
首輪の鈴が、静かな会場でちりん、ちりんと不快に鳴る。場違いで、無礼で、あまりにも残酷だ。
朱美はそれを無視し、必死に目を走らせた。母に会いたい――それだけ。
やがて棺の前まで押される。
人々が一斉に距離を取った。
構わない。
「母さん……遅くなってごめん」
声はざらつき、掠れて、聞き取れないほど小さい。
それでも母なら、きっとわかる。
棺の中で、母は温度のない箱に横たわっていた。目を閉じ、穏やかな顔。
幸せそうにすら見える。――けれど朱美だけが知っている。母がどれほど悔しく、苦しく逝ったか。
誇りだった娘が、母を殺したことにされたのだから。
「触るな!」
江原明人が車椅子を蹴りつけた。目にあるのは隠しようもない嫌悪。
「出て行け! 二度と江原家に近づくな!」
「母に会いに来ただけ……」
昔なら、朱美は彼をおじさんと呼んだ。
いまは、その呼び方すら喉に引っかかる。
「死因を知ってるか?」
江原明人は怒鳴る。
「お前が殺したんだ! お前がいる限り江原家は不幸になる!」
そして大きく開いた扉を指さした。
「今日からお前は江原家の人間じゃない。生きようが死のうが関係ない。出て行け! 遠くへ行け! 二度と戻るな!」
