第4章
「出て行け! 遠くへ行け! 二度と戻るな!」
江原明人の怒声が、葬儀場の静けさを引き裂いた。
江原朱美は車椅子の脇で床に伏した。折れた腕でどうにか身体を支えたせいで、骨の断端が皮膚を突き破りそうになり、痛みで視界がすうっと黒く滲む。気を失いかけた。
――だめ。倒れちゃだめ。
朱美は舌先を噛み、強引に意識を引き戻す。震える腕で上体を起こし、江原明人を見上げた。
棺の傍で背筋を伸ばし、皺ひとつないスーツ。胸元には白い小花を一輪。
けれどこちらへ向けられた視線は、隠しようもない嫌悪――まるで生ゴミでも見るみたいだった。
「……おじさん……私は、母さんに最後に会いたいだけで……」
「出て行けって言ってるだろ、わからないのか」
江原明人は声を低くして吐き捨てる。
「生きてるうちにお前があいつを追い詰めた。死んでもなお荒らすつもりか? 良心ってものはないのか」
朱美は顔を上げ、彼の向こう――棺の中の母を見た。
もう二度と目を開けない。なのに、最期の顔すらまともに見せてもらえない。
「一目だけ……お願い。一目だけでいいの……」
「させるか!」
江原明人は車椅子の取っ手を掴み、乱暴に外へ押し出した。
「自分がどんな格好してるか、わかってるのか! 葬式にそんな格好で来て、見送りに来たのか、笑わせに来たのか!」
朱美は俯く。
薄い黒の情趣下着。レース越しに傷痕が透け、首には黒い首輪と鈴。少し動くだけで、ちりん、と不快に鳴った。髪は乱れ、頬には涙の跡。口元には乾いた血。
――違う。これは幸子に着せられて……。
そう言いたいのに、喉がひゅうっと鳴るだけで声にならない。
「江原朱美、お前は江原家の恥だ!」
江原明人は怒鳴りつける。
「お前の母親が人生でいちばん恥をかいたのはな、お前みたいな恩知らずを養子にしたことだ!」
「養子でも……母さんは二十年以上……私を育ててくれて……お願い、最後に……」
「お前に母と呼ぶ資格はない!」
憎悪を滲ませ、さらに畳みかける。
「ネットに流れたあの動画で、江原家の顔は潰れた! あれを見て、あの人は酸素を抜いたんだ。江原朱美――お前が殺したんだよ」
「私じゃない……幸子が――」
「いい加減にしろ!」
江原明人の声が会場に響き渡る。
「幸子は昔から身体が弱くて、心の優しい子だ。そんな子が何をする? それよりお前だ。藤原家に嫁いでから、まともなことを一つでもしたか!」
――心の優しい子?
子どもを奪い、母を追い込んだ女が、今もなお「高嶺の花」のまま。
自分は淫らな女で、恩知らずで、養母殺し。
「今日から」
江原明人は宣告するように言った。
「江原朱美は江原家の人間じゃない。生きようが死のうが、江原家とは一切関係ない」
背を向け、吐き捨てる。
「出て行け。二度と戻るな」
朱美はついに力が尽き、床に崩れた。涙で視界が溺れる。
「何をしてる」
江原明人が警備員に手を振る。
「外へ放り出せ」
屈強な警備員が二人、朱美の腕を掴んで引きずった。折れたほうの腕が引かれ、骨の断端が肉の中でぐり、と動く。激痛に息が詰まり、声も出ない。
花輪の間を、群衆の視線を、開いた扉を――ずるずると引きずられていく。
背後のひそひそ声が遠ざかり、棺も、母も、遠ざかった。
霊安室の前の道路に投げ捨てられた。
アスファルトは陽に焼け、背中が鉄板で炙られるみたいに熱い。
警備員は戻り、扉がゆっくり閉じていった。
起き上がろうとしても、砕けた足首が身体を許さない。動くほうの手だけで地面を支え、這うしかなかった。
離れなきゃ。
生きなきゃ。
歯を食いしばり、朱美はじりじりと前へ進む。
熱で膝と肘が削れ、血と汗が混じって、背後に長い跡を引いた。
どれほど時間が経ったのか。――一時間か、二時間か。
意識が薄れ、道が霞み、ついに路肩へ倒れ込む。
闇に沈む直前、目の前に革靴が止まった。
男の声が落ちる。
「連れて帰れ」
氷みたいに冷たい声。朱美は考える力すら残っておらず、そのまま世界が真っ暗になった。
目を覚ますと、見知らぬ病室のベッドだった。
灰白の天井。埋め込まれた蛍光灯が、ぶうん、と唸る。空気は消毒液と黴の匂いで重い。
身体を動かそうとして、全身が痛みの塊だと知った。
――路肩で倒れて、革靴が見えて、「連れて帰れ」と言われて。
そこから先が、ぷつりと途切れている。
ドアが開き、看護師がトレイを持って入ってきた。無言で白粥の椀をサイドテーブルに置き、踵を返す。
「待って……ここ、どこ……?」
声は掠れて、自分のものとは思えない。
看護師は振り返りもしない。
扉が閉まり、かちり、と施錠の音がした。
朱美は必死に上体を起こし、周囲を見回す。
狭い病室。窓はない。鉄の扉だけ。壁には何もなく、呼び出しボタンもない。――病室というより牢屋だ。
白粥をひと口すすった。米粒が頼りなく沈み、塩気すらない。
数日で、状況は嫌というほど理解できた。
ここは江原家の私設病院。あの日、路上から朱美を連れ去ったのは、江原幸子の手の者だった。
江原幸子は一度だけ姿を見せた。
看護師が傷の手当てをしている最中、扉が不意に開く。
車椅子の幸子が、介護者に押されて入ってきた。
白いネグリジェ。髪を下ろし、透けるように青白い顔。弱々しさを纏ったその姿が、むしろ作り物めいて見える。
「朱美お姉さん、少しは良くなった?」
柔らかな声。いたわるような響き。
朱美は何も答えず、ただ見つめ返した。
幸子は介護者を外へ下がらせ、車椅子のままベッド脇へ寄る。
「……その目、なに?」
声を落とし、口元だけ笑う。
「私がここへ入れろって言わなかったら、あなた、とっくに藤原創に捨てられて、どこかで野垂れ死によ」
「助ける? 閉じ込めて、これが助け?」
「外でネット中に晒されて嬲られるよりマシでしょ?」
首を傾げ、淡々と突き刺す。
「子どももいない。お母さんもいない。旦那にも捨てられた。おじさんにも追い出された。あなた、もう何もないじゃない」
「笑いに来たなら、出て行って」
「笑いに来たんじゃないの」
幸子は朱美の腕の包帯に指先で触れ、甘ったるく囁く。
「いい知らせ。あなたの心臓――そのうち、私の胸で動くのよ」
「……出て行け」
「怒った?」
幸子は楽しげに笑った。
「まだ早いわ。移植まで、あなたの血も必要なの。週に400cc。私の身体が戻るまでね」
とん、と朱美の手の甲を軽く叩く。
「ちゃんと食べて。身体、整えて。弱りすぎたら、手術の日まで持たないでしょ?」
車椅子を回し、扉へ向かう。
最後に振り返り、にこりと告げた。
「ここ、食事が不味いかもしれないけど我慢してね。だって――あなた、もう藤原奥様じゃないもの。いいもの食べる資格、ないでしょ」
扉が閉まり、また鍵の音が落ちた。
朱美は鉄の扉を睨みつける。胸の奥で、どろりとした憎しみが煮えたぎる。
――逃げる。必ず。
