第5章

逃げ出す機会は、あまりにも突然やってきた。

その夜更け、廊下の向こうがざわついた。怒鳴り合う声、ばたばたと駆ける足音。

警備員でも呼び出されたのだろう。しばらくして、廊下は不気味なほど静まり返った。

鼓動が跳ね上がる。

朱美はベッドから転がり降り、折れた脚を引きずりながら、にじりにじりと扉へ近づいた。

押す。

——開いた。鍵が、かかっていない。

外は薄暗い廊下。突き当たりの非常口が、緑の灯りを点している。

歯を食いしばった。折れた脚が床を擦るたび、骨と骨が擦れ合う感覚がする。緑の光が、少しずつ近づいてくる。

手が非常口に届きかけた、その瞬間。

足裏が、ぬるり、と滑った。

バランスを失い、前のめりに倒れ込む。

唇を噛み、声を殺した。起き上がろうとしても脚に力が入らない。ようやく身体を支えたと思った途端、また崩れ落ちる。

そのとき、聞こえた。

「——ウゥ……」

低く、危険な唸り。廊下の奥から這ってくる音。

朱美の血の気が引いた。狼の遠吠え——いや、唸り声だ。

ゆっくり振り返る。

曲がり角の先、いつの間にか鉄扉が開いていた。中は闇。だが、床を引っ掻く爪の音が、はっきり聞こえる。

藤原創が飼っている三頭の狼。

闇の縁からぬっと現れ、身体を低く構え、喉の奥でぐるる、と鳴らした。

先頭の狼の鼻先がひくつく。脚の血の匂いを嗅いだのだ。瞳孔が、ぞわりと開く。

「……いや……」

朱美は後ずさった。背中が壁にぶつかる。

「やだ……っ、やだ——」

逃がしてはくれなかった。

先頭が跳んだ。

牙が、まだ無事だったほうの脚に食い込む。

「——ああっ!!」

絶叫が漏れた。

皮膚が裂け、肉が千切れ、歯が骨を噛む。ぎち、ぎち、と嫌な音が耳の奥に突き刺さる。

反射で、もう片脚を振り上げて狼の頭を蹴ろうとする。だが噛みつきは強まるばかり。狼は首を激しく振り、肉を引きちぎった。

残り二頭も襲いかかる。

一頭が左腕へ噛みつき、もう一頭が肩へ食らいついた。

三方向から引き裂かれ、朱美の身体は床をずるずると引きずられる。

血が白い床に散り、壁へ飛び、頬へ、唇へ、ぬるい赤がかかる。

痛みで、意識がほどけていく。

助けを呼びたい。——でも、来ない。来るはずがない。

死ぬ。ここで——。

そう思った瞬間、鋭い口笛が鳴った。

ピィッ。

三頭が同時に口を離し、すっと距離を取る。

座り込み、口元の血を舐めながら、緑の目で朱美を見下ろした。

朱美は血だまりの中で喘ぐ。指一本、動かせない。

視界の端に、革靴が止まった。

顔を上げる。

藤原創。

皺ひとつないスーツ。乱れのない髪。

床に転がる血まみれの自分とは、まるで別の世界の人間だった。

「逃げるのか」

声は軽い。嘲りを薄く混ぜて。

「逃げ切れると思ったか」

朱美は口を開けた。喉の奥が血で泡立つ。

咳き込むたび、赤が唇の端から零れ落ちた。

創はしゃがみ込み、顎を掴んで無理やり上を向かせる。

背後の灯りに照らされ、彼の顔の半分が影に沈んだ。

その一瞬だけ。

彼の瞳に、何かが揺れた。長いあいだ押し殺してきた、何かが——。

朱美は、そこに縋った。

彼が正気に戻ったのだと。自分が何をしているのか、ようやく気づいたのだと。

「藤原創……お願い……もう、やめて……」

声は砕けた破片みたいだった。

顎を掴む指が、ぎゅっと強くなる。骨が軋むほど痛い。

「やめる?」

創が小さく笑う。

「江原朱美。配型の結果はもう出た。あいつの身体が整ったら——お前の心臓を取って、あいつにやる」

血の海の中で、朱美は彼の冷たい顔を見上げた。

「藤原創……あれは、あなたの子……あなたが、あなたの子を——」

呟きが、震える。

創の表情は、動かない。

「俺の子じゃない」

断言。事実を告げるみたいに。

「鑑定書を見ただろ——藤原玄哉の子だ」

「偽物よ!」

残った力を振り絞って叫ぶ。

「あなたの子よ! あなたが……自分の血を——!」

創は朱美を見下ろし、淡々と言った。

「言い終わったか」

そして背を向ける。

「言い終わったなら傷を治せ。次に逃げたら、狼は止めない」

去っていく背中。三頭の狼も、静かに後を追う。

廊下に残されたのは、朱美ひとり。

血だまりの中。狼牙に裂かれた傷だらけの身体で、ただ天井を見上げるしかなかった。

―――

朱美が初めて採血を拒んだのは、曇天の午後だった。

看護師が注射器を持って入ってくると、朱美は両手を布団の中へ隠し、身体を小さく丸めた。

「……採らない」

掠れ声。それでも意志は硬い。

看護師は一瞥しただけで出ていった。

しばらくして、扉がまた開く。

入ってきたのは看護師だけじゃない。屈強な介護者が二人——男と女。

女の看護師が事務的に言った。

「藤原さんの指示です。協力しないなら、別の方法で」

ベッドから引きずり下ろされる。

肩を押さえつけられ、床へ押し倒された。

抵抗しても無駄だ。この壊れた身体では、笑い話にしかならない。

羽を摘まれた蝶みたいに、もがくほど滑稽だった。

看護師が器具を載せたカートを押してくる。

胃がひっくり返る。見覚えのあるものばかり。

「……何をするの……」

震える声。

看護師は手袋をはめ、淡々と口にした。

「藤原さんが。あなたの身体は汚れている、と。幸子さんに清潔な血を提供するため、男に触れられた部位はすべて消毒・洗浄する必要があるそうです」

「違う……全部、嘘……触られてない……子どもは、彼の……私は、彼だけ……」

腕をベッドに縛られ、脚を無理やり開かされる。

冷たい器具が皮膚に触れた瞬間、朱美は全身を震わせた。

侵されるような吐き気が、腹の中をぐちゃぐちゃに掻き回す。

目を閉じても、耳は塞げない。

吐きたいのに吐けない。胃は空っぽだ。

「やめて……お願い、触らないで……」

涙が音もなく落ちて、耳へ、髪へ滲んでいく。

白い天井灯が、痛いほど眩しかった。

どれほど経ったのか。

ようやく手が止まる。

看護師が手袋を外し、器具を一つずつ片づける。

介護者が縄を解き、朱美を雑巾みたいにベッドへ放り投げた。

足音が遠ざかる。

鍵が落ちる音。かちり。

ひとり。

朱美は濡れたまま横たわった。川から引き上げられた死体みたいに。

消毒液の匂いが皮膚の奥にまで染みつき、いくら時間が過ぎても消えなかった。

それから朱美は、生きた屍になった。

週に二度、採血。1回200cc。

針が血管へ入るたび、暗赤色の血がチューブを通って血袋へ溜まっていくのを、ただ見ていた。粘つく色。生温い現実。

藤原創は週に一度、来た。

扉口に立ち、採血の様子を眺める。表情は平静で、日課の点検でもしているみたいだった。

煙草に火をつけることもある。

煙の向こうで、彼の顔がぼやける。

一度、採血の途中で意識を失った。

目を開けたときには終わっていた。針は腕に刺さったまま。血袋は新しいものに替わっている。

朱美はそれを見つめた。

週400cc。

——吸い尽くす気だ。

創は扉口で煙を消し、言った。

「食え。造血が弱すぎる。この程度で倒れるな」

それだけ言って去り、扉が閉まる。

身体は日ごとに悪くなる。

採血のあとは数日、ベッドから起き上がれない。立てば目の前が暗転し、耳鳴りが頭蓋を裂く。

手は震え、椀を持てない。白粥が布団へこぼれても、拭く気力すら湧かなかった。

ただ、染みが広がっていくのを眺めている。

痩せ細り、血管は硬く脆くなる。

針が入らず、何度も刺し直される。看護師は苛立ち、針先で皮膚を探り回す。冷や汗が噴いても、もう叫ばない。

叫んで、誰が助ける?

誰も来ない。

その夜、江原幸子がやって来た。

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