第6章
ドアの鍵が回る音がした。配膳の看護師だと思った。
けれど入ってきたのは――江原幸子だった。
車椅子ではない。手にはコップ一杯の水。
彼女は入口に立ったまま、こちらを見下ろしてくる。
江原朱美も、黙って見返した。前に見たときより顔色がいい。頬に血の気が戻り、紫がかっていた唇も普通の色に近い。
……私の血が、よく効いているってことだ。
「朱美お姉さん」
ベッドの脇に腰を下ろし、子どもをあやすみたいに優しい声で言う。
「具合、どう?」
朱美は答えない。
幸子は気にした様子もなく、コップをサイドテーブルに置いた。小首を傾げ、覗き込むように朱美を見る。
「お水、持ってきたの。栄養剤も入れてあるから、飲めば少しは楽になるよ」
一拍置いて、口元がゆるく上がった。
「安心して。毒じゃない。朱美お姉さんは私のドナーだもん。死なれたら困るでしょ」
朱美はコップを見つめたまま、沈黙した。
「飲まないの?」
幸子は小さく息をついた。
「この数日、ほとんど食べてないって聞いた。看護師さんも言ってたよ、もう持たないって。そんな状態で、どうやって私に心臓くれるの?」
朱美は顔を背けた。視線を合わせない。
その沈黙が、幸子を笑わせた。
「ねえ。お母さんが死ぬ前に、何て言ったか知ってる?」
朱美の身体が、ぴくりと固まる。
「――朱美に、ちゃんと生きてほしいって」
幸子は淡々と続ける。慈悲みたいな口調で、刃物みたいに。
「自分が一番申し訳ないのはあなたで、本当の家をあげられなかったって。幸せになってほしいって。あとね……この人生で唯一の心残りは、自分の本当の娘を見つけられなかったことだって」
涙が、朱美の頬を勝手に伝った。
「でもさ」
幸子が身を乗り出す。囁き声。耳の奥にまとわりつく湿った音。
「お母さん、知らないんだよ。朱美お姉さんが、もうすぐ死ぬって」
「……やめて……」
声が震える。
「天国から見てたら、どう思うかな。こんなふうに変わり果てたあなたを見たら――悲しいかな?」
「……黙れ……」
「黙らないよ」
幸子の声は蛇だった。耳へ、頭へ、心臓へ、するりと入り込む。
「お母さん、どうして死んだか覚えてる? 動画で見たの。男に抱かれて、弄ばれて……あの姿を見て、自分で酸素を抜いた」
朱美の呼吸が乱れる。胸が詰まり、息が吸えない。
「死ぬ直前まで、あなたの名前を呼んでたよ。『朱美、朱美、ママが悪かった』って」
「黙れっ!!」
朱美は咆哮し、起き上がろうとしてベッドの上で震えた。身体が言うことをきかない。力が入らない。
幸子は動かない。ベッド脇に座ったまま、静かな顔で眺めている。まるで舞台を見物する客。
「もし、お母さんが知ったらどうかな。あなたを引き取ったこと、後悔するかな」
言ってから、興味を失ったように肩をすくめる。
「……まあ、いいや。飲んで」
幸子はコップを朱美の目の前に差し出した。
「飲んだら、寝て。身体が整ったら、心臓ちょうだい」
朱美はコップを見つめた。
ふいに、抵抗がどうでもよくなった。
手を伸ばし、受け取る。唇をつけ、一口。
変な味がした。苦いのに甘くて、その奥に――言葉にしがたい生臭さ。
幸子はそれを見届けると、笑みを深くした。
「いい子。寝な」
立ち上がり、朱美の手の甲を軽く叩く。
「目が覚めたら、全部よくなるから」
幸子は出ていった。鍵が落ちる音。がちゃり、と冷たい現実の音。
朱美はベッドに沈み、眠気が来るのを待った。
来たのは、眠気じゃない。
――幻覚だった。
天井が、ぐにゃりと歪む。輪郭が溶ける。
「……お母さん……?」
試すように呼んでも、返事はない。
けれど視界の端、病室の隅に影が立った。
白い病衣。乱れた髪。青白い顔。
母だ。
「お母さん!」
朱美は起き上がろうとして、喉が裂けるほど叫んだ。
「お母さん――!」
母は口を開かない。ただ、立ち尽くして朱美を見ている。頬を涙が流れ落ちる。
「ごめん……私のせいで……ごめん……」
それでも母は黙ったまま。
次の瞬間、母の表情が変わる。悲しみが、怒りへ。
目から血が滲んだ。黒い血が、頬を伝って落ちる。
口が裂けるほど開き、鋭い悲鳴が病室を裂いた。
「お前が――殺した――!!」
「違う! 違う!!」
朱美は耳を塞いで叫ぶ。
「私じゃない! 江原幸子が……あいつがやったんだ!!」
母は聞かない。
ずしん、ずしん、と重い足音。
一歩ごとに、心臓を踏みつけられるみたいだった。
「お前が殺した……お前が子どもを殺した……人殺し……」
「違う! 私は……!」
首がちぎれるほど振る。涙が飛び散る。
母は止まらない。近づく。近づく――。
顔が、朱美の目の前まで迫った。
そして、その顔が――溶けるように変わる。
江原幸子。
腐りかけた肌の口元が、にたりと歪んだ。
「死にたいんでしょ?」
その声が、腐臭ごと朱美の鼓膜を撫でる。
「手伝ってあげる」
朱美は跳ねるように目を開いた。
病室には、何もない。
天井も、壁も、空気も。現実だけがそこにあった。
……あの水に、薬が入っていた。
幸子は見舞いに来たんじゃない。殺しに来たのだ。
朱美はベッドの縁に手をつき、身を起こした。全身ががたがたと震える。薬はまだ抜けていない。景色がわずかに歪み、耳の奥に遠い悲鳴が残っている。
けれど頭だけは冴えていた。これまでで一番、冷たく澄んで。
――私を殺すつもりだ。
朱美はベッドに腰掛け、部屋を見回した。
この病室に閉じ込められて何日だ。採血、浣腸、屈辱。いつでも屠れる家畜として扱われた。
もう、ここにはいない。二度と触らせない。
壁に手をつき、ふらつく脚を引きずって、ドアへ一歩ずつ進む。
――鍵がかかっている。
朱美は振り返り、病室を見渡した。
サイドテーブルの上。指先が何かに触れた。
ライターだ。
藤原創が前に来たとき、何気なく置いていったもの。あいつは煙草が好きで、採血される私を、煙の向こうから眺めていた。
朱美は親指で弾く。
ちいさな火が、ぽっと生まれた。弱々しい炎。それでも、この牢獄を照らすには十分だった。
朱美はそれを、ベッドの上へ放った。
火がシーツに触れた瞬間、ぼっと背が伸びる。白い布に舌が絡みつき、ぱちぱちと乾いた音が弾けた。
朱美はドアの前に立ち、燃え広がるのを見つめた。
燃えろ。
全部燃えろ。
私を閉じ込めた部屋も、吐き気のする記憶も――私自身も。
煙が立ちこめてくる。黒い濃煙がベッドから湧き上がり、鼻へ、喉へ、肺へ突き刺さる。
咳が漏れる。止まらない。
朱美は身を折り、ぜえぜえと咳き込んだ。涙と鼻水が一緒に落ちる。
火は壁に届いた。
白い塗装が熱でぶくぶくと膨れ、はがれ落ち、灰色のコンクリートが覗く。
天井の照明が高熱に耐えきれず、ぱん、と弾けた。ガラス片が四方に散った。
病室が、燃えている。
熱風で髪が縮れ、肌が焼けるように痛む。
「朱美お姉さん――!!」
ドアの向こうから声。
朱美は顔を上げる。ドアの小さな覗き窓越しに見えたのは、江原幸子の顔だった。
怯えた顔。
「火事よ! 開けて!」
甲高い声。恐怖で裏返っている。
けれど幸子の手はノブにかかっているだけで、回さない。
ただ、見ている。
火の中の朱美を。
「江原幸子……」
朱美の声は掠れて、ほとんど音にならない。それでも、幸子には届いたはずだ。
「一緒に死のう」
朱美は手を伸ばし、ノブを掴もうとした。
引きずり込む。ここへ。燃える部屋へ。いっしょに焼け死ぬ。
指先が届きかけた、そのとき。
――ドアが、外から押し開けられた。
一気に空気が流れ込み、炎が咆哮して朱美へ襲いかかる。
朱美は煽られ、よろめき、数歩後ろへ倒れた。
床に転がったまま見上げる。
入口に立つ幸子。
さっきまでの恐怖は消えていた。代わりに浮かんでいるのは、骨の髄まで見慣れた笑み。
幸子は足を上げ――朱美の胸を蹴った。
朱美の身体が吹き飛び、背後の火の海へ叩き込まれる。
炎が、呑み込む。
皮膚が高熱で弾ける音。髪が燃える、じゅう、という湿った音。
遠くで、幸子の叫びが聞こえた。
「早く! 消火して! 朱美お姉さんがまだ中に――!」
そこから先は、何も。
音も、熱も、光も。
すべてが途切れた。
