第3章

【澪の視点】

 この結婚において、唯一の救いは妊娠しなかったことだ。

 朋之は二人の子供を心待ちにしていたが、私はずっと避けてきた。母が難産で命を落としたというトラウマがあまりにも大きかったからだ。妊娠を想像するたびに、母と同じように血の海に倒れ、二度と目を覚まさない自分の姿を夢に見てしまう。

 朋之と結婚したからといって、自分の命まで彼に委ねるつもりはない。子供を作ることは結婚以上に慎重になるべきだ――一つの命を理由に、一人の男と永遠に縛り付けられることになるのだから。

 最初は落胆していた朋之だが、それでも私を慰めてくれた。

「大丈夫、君の心の準備ができるまで待つよ」

 当時の私は、彼が本当に待ってくれるのだと信じていた。

 だからこの数年間、私は必死に自分の精神状態を整えようと努力してきた。心療内科にも通い、母がもうこの世にいないという事実を受け入れようとした。そして、朋之の些細な言動を観察し、本当にこの身を託すに足る相手なのかを見極めようとしていた。

 そして昨年、ようやく自分の中で覚悟が決まった気がした。

 だが、彼を注意深く観察し、気に掛けていたからこそ、その違和感に気づいてしまったのだ。

 朋之のスーツから、見知らぬ香水の匂いが漂ってきた。病院の消毒液などではない、甘ったるい女性向けの香水。彼のビジネスバッグにはライブの半券が入っていたが、私は彼とライブになんて行ったことがない。クレジットカードの明細には高級レストランでの決済記録が残っていたが、その日、彼は残業だと言っていた。

 私は彼を問い詰めなかった。ただ密かに、妊活の計画を白紙に戻しただけだ。

 それから、証拠集めを始めた。

 ポケットから出てきた映画の半券のおかげで、具体的な映画館と時間を特定できた。静流のSNSを覗いてみると、案の定、彼女は同じ日に『最高に素敵な映画』に「偶然」出会っていた。

 過去の投稿を遡ると、静流が頻繁に見せびらかしている数々が目に飛び込んできた。オートクチュールのドレス、精巧なジュエリー、ライブ会場での自撮り。誰からのプレゼントかは一切明かさず、ただ艶めかしい言葉が添えられている。

『私を特別な存在にしてくれて、ありがとう』

 その写真を見つめたまま、私は笑みをこぼした。

「義母」相手によくもまあそこまで貢げるわね、朋之。

——

 私の話を聞き終えると、志都美叔母さんは青筋を立てて激怒した。

「あのクズ女! あなたのお母さんを台無しにしただけじゃ飽き足らず、今度はあなたの夫までたぶらかすなんて!」

 しかし、私は至って冷静だった。

 もし朋之の浮気相手が他の誰かだったなら、これまでの情に免じて円満に別れていたかもしれない。だが、彼はよりによって静流を選んだ。

 静流がどんな人間か、私以上に知っている者はいない。

 私たちは一緒に育った。母がまだ生きていた頃、静流はいつも「冗談」めかして母がえこひいきしていると言い、誰からも愛される私が羨ましいと口にしていた。

「もし機会があったら、あなたのすべてを奪ってあげる」

 当時、彼女は笑いながらそう言った。

「あなたにも、誰からも見向きされない惨めさを味わわせてあげるわ」

 ただの子供の戯言だと思っていた。

 だが、彼女はそれを本当にやってのけたのだ。

 私の父を奪い、母を死に追いやり、さらには私の結婚に対する期待まで、すべてをぶち壊した。

 今や父も老い、長年にわたる静流の贅沢な暮らしのせいで財産は底をつきかけている。だから今度は、若くて金回りのいい朋之に目を付けたというわけだ。

「離婚すると決めたのなら、決して情けをかけちゃ駄目よ」

 志都美叔母さんは私の手をぎゅっと握りしめた。

「あなたのお母さんは、あの薄汚い男女を警戒しなかったせいで……」

 叔母さんが言っているのは、母が辿った末路のことだ。

 静流は崇介と結婚した後、あっという間に我が家の財政をすべて掌握した。母と父が苦労して立ち上げた法律事務所は、あいつら二人のイニシャルに変えられた。母が私に残してくれた遺産信託は凍結され、大学の学費も打ち切られ、私はアルバイトを掛け持ちして食いつなぐしかなかった。

 その一方で静流はどうだ? 彼女はセレブ妻を気取り、高級車を乗り回し、かつて母が丹精込めて内装を整えた家で優雅に暮らしている。

「あんな女、いつか必ず天罰が下るわ!」

 志都美叔母さんは怒りを露わにして吐き捨てた。

「神様の手を煩わせるまでもありませんよ」

 私は淡々と答えた。

「この数年間、ずっと準備を進めてきましたから」

——

 見知らぬ番号から着信があったのは、弁護士との通話を終えた直後だった。

『澪?』

 静流のあの特徴的な甘ったるい声が聞こえてきた。

『私よ。切らないで、最後まで話を聞いてくれる?』

 私は無言を貫いた。

『朋之君と喧嘩したって聞いたわ』

 彼女はわざとらしくため息をついた。

『実はね、全部私のせいなの。あの日のパーティー、どうしてもあなたを連れてきてって朋之君に頼み込んだのは私なのよ。澪、彼を責めないであげて。彼は優しすぎるから、私を放っておけなかっただけなの。お母様だって草葉の陰で、あなたの結婚生活が上手くいかなくなるなんて望んでないはずよ――』

「母を引き合いに出さないで」

 私は冷ややかな声で遮った。

「私たちが離婚すればいいと思ってるんでしょ? 先に私の父を誘惑して、今度は私の夫。静流、あなたって本当にブレないわね――一貫して恥知らずなところが」

『なっ――』

 怒りで言葉を詰まらせた後、彼女は突然甲高い声で笑い出した。

『私が彼を誘惑したからって何よ? 自分があの人に相応しいとでも思ってるの? 精神を病んでて、子供を産む勇気すらない女のくせに。朋之は本来、私のものになるべき男なのよ』

「その通りね」

 私は抑揚のない声で告げた。

「だから、彼をあなたに譲ってあげたのよ」

「でもね、静流」

 私はスマートフォンの画面に表示された、宅配便の配達完了通知を見つめた。

「崇介も同じように寛大でいてくれるかしら?」

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