第4章

【澪の視点】

 電話を切り、机の上の母の写真を見つめる。

 配達完了の通知が届いた。私立探偵が撮ったあの写真たちは今頃、崇介のデスクの上に置かれているはずだ。カフェでの朋之と静流の親密な会話、コンサート会場前での密会、それに――彼が彼女の首にネックレスを着けてやったあの瞬間まで。

「ショーの幕開けよ、お母さん」

 私は小さく呟いた。

 あの自己中心的で傲慢な男、崇介は、他人の裏切りを絶対に許さない。その昔、母が彼の浮気を問い詰めただけで、血の海に倒れる母を冷酷に見下ろしていたのだ。では今はどうだろう? 静流が隠れて若い男を誘惑していると知ったら、一体どんな行動に出るのか。

 そして朋之――彼が離婚に同意しようがしまいが、絶対にただでは済ませない。

     *

 一方、朋之の生活もまた音を立てて崩れ落ちようとしていた。

 寝室に立ち、足の踏み場もないほど散らかったクローゼットを眺める。シャツは皺くちゃに丸まり、ネクタイは合うものが見つからず、靴下が部屋のあちこちに散乱している。澪が出て行ってから、もう一週間が経つのかと、彼は今更ながらに実感していた。

 手術を終えると、同僚の早森が歩み寄り、ぽんと肩を叩いてきた。

「まだ帰んないの? 奥さんと喧嘩でもしたか」

 朋之は適当に笑って誤魔化した。

「たいしたことじゃないさ」

「『たいしたことない』ツラには見えないけどな」

 早森は彼の皺だらけの手術着をジロジロと見る。

「お前、もう三日連続で当直だぞ。帰ってちゃんと寝ろよ」

 朋之は首を横に振った。帰りたくなかったのだ。

 だだっ広い一軒家は、彼を息苦しくさせるだけだ。冷蔵庫を開けても澪が作ってくれた弁当はなく、バスルームからは彼女が愛用していたシャンプーの香りが消え、リビングのソファには読書中の彼女が残した温もりも沈み込みもない。

 すぐに戻ってくるだろうと高を括っていた。これまで何度喧嘩しても、結局はいつも澪の方から折れてくれていたのだから。

 だが、今回は違う。彼女のあの冷たさに、背筋が凍るような焦燥感を覚えていた。

 また胃がシクシクと痛み出した。朋之は腹部を押さえる。まともな食事を摂ってから、ずいぶんと経つ。深夜まで残業した時、澪がいつも保温水筒に温かいスープを用意してくれていたのを思い出した。

「くそっ」

 彼は低く吐き捨て、スマートフォンを手に取った。

 自分から動くべきなのかもしれない。彼女を迎えに行き、腹を割って話し合おう。

     *

 午前二時。土砂降りの雨。

 最後の手術を終えた朋之は、泥のように重い体を引きずって地下駐車場へと向かった。フロントガラスに打ち付ける雨粒で、視界はひどく滲んでいる。

 エンジンをかけようとしたその時、視界の隅に人影が映り込んだ。

 一人の女が地面にうずくまっている。全身ずぶ濡れで、メイクも涙でドロドロに崩れていた。

 静流だ。

 朋之は数秒ためらった後、ついに車の窓を下ろした。

「静流?」

 彼女は顔を上げた。両目は赤く腫れ上がり、声はしゃくり上げている。

「朋之……ごめんなさい、私、どこに行けばいいか分からなくて……」

「何があったんだ?」

「崇介が、ある写真を見ちゃって……」

 静流はさらに激しく泣き崩れた。

「この一年、私たちが会ってた時の写真よ。彼、誤解してるの! 私がふしだらだとか、隠れて他の男を誘惑してるとか言って……家から追い出されちゃった……」

 彼女は顔を伝う雨水と涙を乱暴に拭い去り、絶望に満ちた声で続ける。

「私、本当に何もしてないのに! あの写真、澪と仲直りできるように朋之に頼み込んでた時のものよ。それなのに、彼ったら全然信じてくれなくて……」

 朋之は数秒間、沈黙した。

 あの日、離婚を切り出した澪の目を思い出す――氷のように冷たく、一切の未練もない、まるで赤の他人を見るような目だった。もし崇介が見た写真が本当に自分と静流の密会記録なのだとしたら、澪が送りつけた可能性が高い。だからこそ、彼女はあれほどまでに決然としていたのだ。くそっ、一刻も早く彼女を見つけ出して、誤解を解かなければ。

「乗れよ」

 最後に彼はそう言った。

「ありがとう、朋之」

 静流は大人しく助手席に乗り込んだが、わざとシートを彼のほうへと少しだけ近づけた。

 車内は静まり返っていた。ワイパーが単調な音を立ててガラスの雨水を拭い去っていく。

 静流は朋之の端整な横顔を盗み見ながら、少しだけ呼吸を荒げた。彼女はスマートフォンを取り出し、赤信号で停車した隙を突いてアングルを調整する――濡れたブラウスから透けて見えるレースの下着と、朋之の肩に『無防備に』寄りかかる自分の姿がフレームに収まるように。

 彼女は撮れた写真に満足そうな笑みを浮かべ、それをSNSに投稿した。添えた文章はこうだ。

『まだずぶ濡れ。でも今夜は温めてくれる人がいてよかった💦』

 澪がこれを見ることは分かっていた。

 数分後、スマートフォンが振動した。誰かが彼女の投稿を閲覧したのだ。

 静流は会心の笑みを漏らした。彼女は顔を向け、朋之の腕にそっと指先で触れる。

「朋之、実は私、ずっと言いたかったことがあって……」

 言葉を言い終わる前に、車が止まった。

 静流は呆然とした。窓の外を見る――そこは朋之の家ではなく、ホテルだった。

「ここは病院から近い。とりあえず一晩泊まってくれ」

 朋之は無表情のまま告げた。

「明日、俺から崇介に連絡して、ちゃんと誤解を解いてやるから」

 静流の顔から笑顔が凍りついた。昔の崇介がそうだったように、朋之もためらうことなく自分の虜になるはずだと踏んでいたのに。

 だが明らかに、朋之は崇介よりもずっと手強い。

「……わかったわ」

 静流は唇を噛みしめる。その瞳の奥に、一瞬だけ抑えきれない悔しさが閃いた。

 もっと強い刺激が必要ね――。

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