第4章

 浴室の湯気が晴れると、神宮寺凌は私を家へと連れ帰った。

「ゆっくり休むんだ」

 彼は私のために布団を掛け直し、その指先で優しく額を撫でた。

「ここ数日、ほとんど眠れていないだろう」

 ドアが静かに閉まり、私はようやく全ての偽りの仮面を外すことができた。

 寝具は確かに新しく、枕さえも交換されていて、彼の匂いは一切しない。それが私を安心させた。

 目を閉じた瞬間、ドアの外からメイドたちのひそひそ話が聞こえてきた。

「莉音様、昨日会議室に乗り込んだって聞きました?」

「ええ、それに若様のお頭にお茶をぶちまけたとか。一体何を考えてらっしゃるのかしら」

「でも、若様は少しも怒っていらっしゃらなかったそうですよ。大勢のお医者様方の前で、彼女を抱きかかえて出て行かれたんですって」

「当たり前じゃない」

 別の声が、どこか揶揄うような響きを帯びて言った。

「莉音様は、若様の婚約者なんですから」

「でも、聞いた話だと……」

 声がさらに低くなる。

「莉音様って、若様の初恋の人にそっくりなんですって」

 心臓が、どくん、と大きく跳ねた。

 メイドたちが部屋の片付けを終えて去った後も、私はもう眠ることができなかった。

 代用品?

 その言葉が、鋭い刃のように心臓を突き刺す。

 そういうことだったのか。

 私は最初から特別な存在などではなく、ただ誰かの影に過ぎなかったのだ。

 夕暮れ時、燃えるような夕焼けが掃き出し窓から寝室に差し込み、部屋全体をオレンジ色に染め上げた。

 神宮寺凌がドアを開けて入ってくる。身に着けていたスーツは着替えられており、煙草の匂いは微塵もなかった。

「目が覚めたか」

 彼はベッドのそばまで歩み寄り、私の額に手を当てて熱を確かめる。

「少し熱があるな」

 喉が煙でも出そうなほどに乾き、話そうとしても声が出ない。

「テーブルにお茶がある」

 彼はベッドの縁に腰を下ろし、わずかに眉をひそめた。

「どうして飲まないんだ?」

 私はかろうじて首を横に振った。

 彼の顔つきが、瞬時に険しくなる。その深い瞳の奥に、危険な光が一閃した。

「もう、お茶は飲みません」

 私はようやく、その言葉を絞り出した。

 神宮寺凌は急ブレーキを踏み、車は路肩に停止した。

 彼はゆっくりとこちらを振り返る。その両の瞳には、抑圧された怒りの炎が燃えていた。

「水谷莉音、君はそんなにも、俺に逆らいたいのか?」

 私は答えず、ただ窓の外を流れていく車の列を眺めていた。

 もしかしたら私は本当に、彼が完全に忍耐を失い、そして私を容赦なく捨て去るのを見てみたかったのかもしれない。

 あの時のように。

 車は再び走り出したが、病院へは向かわず、そのまま屋敷へと戻った。

 リビングのソファでは、見知らぬ女性が雑誌をめくっていた。

 彼女が顔を上げた瞬間、私はほとんど鏡を見ているのかと錯覚した。

 同じ顔立ちの輪郭、同じ大きな瞳、髪の長さまでほとんど同じだった。

「神宮寺凌、ただいま!」

 彼女は嬉しそうに飛び上がると、リビングに入ってきたばかりの男にその身ごと飛びついた。

 長谷川優香。

 あの伝説の、高嶺の花が、ついに現れた。

「彼女が戻ってきたわ。行かなくていいの?」

 私は冷ややかに見つめながら、神宮寺凌にそう促した。

 神宮寺凌は彼女を見た瞬間、明らかに呆然としていた。

 あんなにも途方に暮れ、打ちひしがれたような表情は、彼の顔に一度も見たことがなかった。

 彼はリビングの中央にただ立ち尽くし、優香にきつく抱きしめられるがまま、まるで魂を失った人形のようだった。

 そして私は、入り口でその全てを見ていることしかできない。

 まるで、余計な存在のように。

 数日後、生活の構図は完全に変わってしまった。

 長谷川優香は屋敷に住み着き、神宮寺凌と片時も離れなくなった。

 夕食の時、元は私と彼が向かい合うだけだった食卓は、今や三人になった。優香が真ん中に座り、私は隅の席に追いやられた。

 理解できなかった。

 本物が帰ってきたというのに、どうして彼は私を解放してくれないのだろう?

 おそらくこれが、神宮寺凌の新しいゲームなのだ。

 私に、彼が本当に愛する人と一緒にいるところを見せつけ、この哀れな代用品を嬲り続ける。

 深夜、酔った神宮寺凌がふらつきながらリビングのドアを開けた。

 彼のシャツのボタンははだけ、瞳は赤く充血し、全身から強い酒の匂いがした。

「優香はどこ?」

 私は彼に尋ねた。

「俺が、失くしたんだ」

 彼は力なくソファに倒れ込み、手のひらで目を覆った。

「彼女はとっくの昔に、俺が失くした」

 リビングは、私たちの呼吸の音だけが響くほど静かだった。

 彼はふと、テーブルの上にある、とっくに冷めきった栄養茶に目を向けた。

「また飲んでいないのか?」

 私が一歩後ずさると、彼はすでに立ち上がっていた。

「飲め」

 彼はティーカップを手に取り、私の方へ歩み寄る。

「嫌——」

「飲め」

 彼の声は、拒絶を許さない命令の響きを帯びていた。

 私は首を振り、さらに後ずさる。

 彼は突然ティーカップをあおり、一気に飲み干した。そして身を屈め、私にキスをした。

 苦い茶が彼の唇と舌の間から注ぎ込まれる。彼を突き放そうとするが、力が強すぎた。

「んん——っ」

 私は必死にもがき、涙が制御できずに溢れ出す。

 彼がようやく私を解放した時、私はすでに全てのお茶を無理やり飲み込まされていた。

「どうしてこんなことするの?」

 私は泣きながら彼を問い詰めた。

「どうして、私にこんなことするの?」

 神宮寺凌は私の涙を見て、顔の表情が瞬く間に崩れ落ちた。

 彼は私を腕の中に引き寄せ、震える手で私の髪を撫でる。

「泣くな、俺が悪かった」

 彼の声は震えていた。

「莉音、俺が、いけないんだ」

 彼の温かい腕の中で、私はある種の錯覚を覚えた。

 まるで、自分はずっと彼に宝物のように大切にされてきた存在であるかのような。

 まるで、あの苦しい記憶の数々が、ただの悪夢だったかのような。

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