第2章

 電話を切ったあと、私は金の鍵を握りしめ、洋佑の父──敬太郎の書斎へと足を運んだ。

 あの日は父の命日だった……敬太郎が私を呼び出したのだ。彼は車椅子に深く身を沈め、老いさらばえた手で父の遺影を愛おしそうに撫でていた。

 医者からは余命幾ばくもないと宣告されている。かつて裏社会を牛耳った「ドン」も、今では酸素吸入器なしでは生きられない体になっていた。

「お前の父親は、わしを庇って死んだ。あいつとの約束通り、わしはお前の面倒を見ると決めている」

 彼は私の手を握りしめた。その声はあまりに弱々しい。

「お前が洋佑を愛しているのは知っている。だが、この遺言書だけは大切に保管しておきなさい。もし結婚後、あいつが……心を鬼にするんだぞ」

 私の困惑した視線を受け、彼は震える指を苦しげに持ち上げ、本棚の方を指した。

「あの仕掛けを押せ」

 控えていた顧問弁護士が指示通りに操作すると、壁が音もなくスライドし、精巧な隠し金庫が姿を現した。

 弁護士は中から一通の書類を取り出し、私に手渡した。

『林原洋佑が早川ユリカとの婚姻期間中に、重大な不貞あるいは裏切り行為に及んだ場合、林原家の全権限を無条件で早川ユリカに譲渡するものとする』

 私は泣きながら首を横に振った。

「お義父様、洋佑は私を深く愛してくれています。こんな書類、一生使うことなんてありません」

 それでも私は鍵を金庫に差し込み、その書類を取り出した。

 今にして思えば、なんと皮肉なことだろう。

 ……

 婚約して一ヶ月が経った頃、洋佑は私のために「独身最後のパーティー」を開いてくれた。彼の友人たちが代わる代わる私に酒を勧め、祝福の言葉を浴びせてきた。

 もともと酒に弱い私は、すぐにアルコールで頭がふらつき始めた。泥のように混濁していく意識の中で、誰かに抱えられてホールを出て、どこかの部屋へ連れ込まれた記憶がおぼろげに残っている……その後の記憶は断片的で、私は何かをしてしまったような、何かを口走ったような……。

 翌日、目が覚めると、私の衣服は見るも無惨に乱れ、体のあちこちが鈍く痛んでいた。

 下着に付着した血痕を見て、私は絶望のあまり泣き崩れた。

「神様……なんてことをしてしまったの……洋佑に知られたらどうすればいいの……」

 当時の私は、それが周到に仕組まれた罠だとは露ほども疑わなかった。自分が「自ら求めて」あんなことをしたのだと、本気で思い込んでいたのだ。

 一週間後、私は涙ながらに洋佑のもとを訪れ、婚約破棄を申し出た。

「私なんて……あなたに相応しくないわ」

 だが彼は、そんな私を力強く抱きしめたのだ。

「何を自分を責める必要がある? 僕の目には、君はいつだってこの世で最も聖なる女性として映っているんだよ!」

 それから三日三晩、彼は私の実家の門前に跪き、雨風に打たれながら叫び続けた。

「ユリカ! 君は何ひとつ悪くない! 僕は絶対に君を見捨てたりしない!」

 見かねた母が、心を痛めて私を説得した。

「洋佑さんはあれほどお前を想ってくれているのよ。もう自分を責めるのはおやめなさい」

 私はついに彼の「真情」にほだされ、この恩に報いるために生涯を捧げようと誓った。

 以来、洋佑の「不変の愛」は東京中の社交界で語り草となった。誰もが、そんな男に愛される私を羨んだ。

 結婚後、彼は確かに私を慈しんでくれた。静けさを好む私のために、三千万もの大金を投じてプライベートアイランドまで購入してくれたのだ。

「この楽園は僕たちだけのものだ」

 満開の紅い薔薇が咲き乱れる庭を指差し、彼はそう言った。

 どんなに仕事が多忙でも、彼は毎月必ず時間を作り、島での二人きりの時間を大切にしてくれた。当初、私は人前に出ることを極端に恐れていた。

「洋佑、私があなたの重荷になるんじゃないかしら……」

 彼はいつも穏やかな笑みで私を慰めた。

「僕の妻はこんなにも美しい。君が隣にいてくれるだけで、僕はより一層輝けるんだ。重荷だなんてとんでもない」

 ある時、数人のメイドが私の過去について噂話をしているのを、彼が聞いてしまったことがあった。彼はその場で部下に命じ、彼女たちの舌を切り落とさせた。私が必死に懇願し、ようやく彼女たちは解放された。

 彼の行き過ぎた「庇護」のもとで、私は少しずつあの悪夢から立ち直っていった。救済を得たと信じ、生涯の伴侶に巡り会えたのだと思っていた。

 ようやく新しい人生を歩み始められる──そう思った矢先のことだった。

 彼が、一人の若い女の手を引いて家に入ってきたのは。

「紹介しよう。従妹の村木美保子だ。京都で伝統的な花嫁修行を終えて戻ってきたばかりなんだ。血統は純正、名声も清廉潔白だよ」

 彼の口から出た「清廉潔白」という文字は、何気ない響きでありながら、私の頬を平手打ちしたかのような衝撃を与えた。

「ユリカ、うちはこれから東京の名家たちとの結びつきを強めていく必要がある。僕が出席しなければならない上流階級の集まりも増えるだろう……」

 私は動揺を押し殺し、努めて冷静に答えた。

「もちろんよ。喜んで同伴させていただくわ。貴族の社交マナーなら、私も心得て……」

 私の言葉が終わらないうちに、美保子が口を挟んだ。

「あなたが早川ユリカさん? 京都でも耳にしましたわ……あなたの『過去』のこと。洋佑お兄様があなたを連れて歩けば、他の名家から指さされるのは避けられませんわ。お兄様が笑いものになってしまいます」

 彼女の言葉は鋭利な刃物のように、私の心臓を切り裂いた。

「あなたの遭遇した不幸には、心から同情いたしますわ」

 彼女は小首を傾げ、心配そうな表情を作ってみせた。

「でも、こんなに美しいお屋敷に住めるなんて、本当に感謝しています」

 一緒に住む? 洋佑からは何も聞いていない。

 洋佑は軽くたしなめるように言った。

「美保子、過去のことはもう言うな。ユリカも被害者なんだ」

 だがその口調には微塵も非難の色はなく、まるで駄々をこねる子供をあやすようだった。

 美保子は悪びれもせず肩をすくめた。

「あら、彼女にとってはそれほど苦痛じゃなかったかもしれませんわよ? 案外、楽しんでいたりして」

 私は拳を固く握りしめ、込み上げる怒りを必死に抑え込んだ。他人の古傷を、どうしてこれほど軽々しく侮辱できるのか。

 洋佑が声を荒らげた。

「美保子!」

「はいはい、これからは気をつけますぅ」

 彼女は甘えるように彼の胸に寄り添った。

「こいつはまだ子供でね、口にフィルターがないんだ」

 洋佑は愛おしそうに彼女の髪を撫でた。その瞳は慈愛に満ちていた。

 これほど優しい目を、彼はもう長いこと私に向けていない。

「悪気はないんだ、思ったことをそのまま口にしてしまうだけでね。どうか大目に見てやってくれ」

 私は気にしていないふりを装い、その場から逃げるように背を向けた。

 その夜、私は主寝室のベッドで洋佑が戻ってくるのを待っていた。

 だが聞こえてきたのは、隣の部屋で繰り広げられる情事の音だった。

「洋佑お兄様! そう、そこっ! もっと激しくして!」

 美保子のあられもない喘ぎ声が、壁を突き抜けて響いてくる。

 続いて、洋佑の低い唸り声が聞こえた。

「最高だよ、美保子……」

「こんなに開放的な気分になれたのは久しぶりだわ……」

 これが、彼の言う「従妹」の正体。

 私は頭から布団をかぶり、唇から血が滲むほど噛み締めた。

 自分自身に何度も言い聞かせる。

『ユリカ、これで満足すべきよ……少なくとも彼は、林原夫人の座をあなたに残してくれている……これ以上を望む資格なんてない……彼がしていることは正しいのよ』

 その夜から、私は沈黙して耐えることを覚えた。これは私が受けるべき罰であり、過去への贖罪なのだと自分を納得させた。

 けれど、心は引き裂かれるように痛い!

 私の譲歩と従順は、野獣に餌を与えるようなものだった。彼の欲望は、日増しに貪欲で恐ろしいものへと変わっていった。

 そして、あの深夜。酒蔵で交わされた吐き気を催すような会話を耳にした時──私はようやく悟ったのだ。この悪夢の深淵は、私が想像しうる最も暗い闇よりもさらに深い場所にあるのだと!

 午前四時。私はリビングのソファに呆然と座り込んでいた。

 ドアが開く音がした。

 酒と香水の臭いをプンプンと漂わせ、洋佑が千鳥足で入ってきた。私のネグリジェに付着した赤い染みを目にした瞬間、彼の瞳から温度が消え失せた。

 彼は酔眼で私を睨みつけた。その目には明らかな悪意が宿っていた。

「またどこの野良犬と遊んできたんだ?」

 私は凍りついた。視線を落とし、衣服についた赤ワインの染みを見つめる。説明しようと口を開きかけた瞬間、彼は狂犬のごとく飛びかかり、私の手首を乱暴に掴み上げた。

「このアバズレが。やっぱり男を誘う尻軽な性根は治らないようだな」

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