第4章 自分のものではなく

鈴村茜は息を切らしながらユメモデル会社へ駆け戻った。

この会社は、人を喰って骨も残さない場所だ。

三年前、子どもを産んだ彼女には頼れる人もなく、技術もない。自分ひとりすら食わせられないのに、子どもまで抱えて生きていくなんて無理だった。

絶望の底で出会ったのが高橋さんだった。

「モデルは金になる。早いし、でかい」

そんな甘い言葉に乗せられて、半信半疑で何度か仕事を受けた。確かに、金は入った。

――それが地獄への契約の始まりだった。

化粧室に足を踏み入れた瞬間、怒鳴り声が飛んできた。

「お前ら何やってんだ! もうすぐ始まるぞ! なんで誰ひとりメイク終わってねえんだ!」

狭くてむっとする化粧室の真ん中で、高橋さんが声を張り上げている。

そこへ鈴村茜がバッグを背負ったまま駆け込んだ――最悪のタイミングで。

「おい、お前! 今ごろ来る気か? 給料いらねえのか! 俺が可愛がってやってるから飯が食えてんだろうが! じゃなきゃ今ごろ路上でゴミ拾いしてるわ!」

「すみません、すみません……っ」

鈴村茜は何度も頭を下げた。

「渋滞で……遅れました……次は気をつけます……」

高橋さんの視線が、彼女の胸元に絡みつく。

いやらしい光が一瞬、ぎらりと走った。

彼は机の上から布切れみたいな衣装を掴み、ぽいっと投げつける。

「ほら、これだ。お前の衣装。さっさと着ろ。時間無駄にすんな!」

「か、管理者……」

鈴村茜は黒いレースの、ほとんど水着みたいな衣装を抱えて固まった。

「うるせえ! 着ろって言ったら着ろ! 着なきゃ契約違反だ。違約金払えんのか!」

鈴村茜は下唇を噛んだ。目尻に涙が滲む。

けれど、選べる道なんてなかった。

歯を食いしばって、その衣装に袖を通す。

この三年で、生活の苦さは彼女から純白を奪い、残ったのは麻痺だけだった。

――車展が始まる。

モデルたちが精巧なメイクを施され、順番にステージへ出ていく。腰をくねらせ、艶めく身体を誇示しながら、極限まで媚びた笑みを作る。

フラッシュがぱしゃぱしゃと弾け、視線が肌を舐める。

鈴村茜は無理に口角を上げ、黒いランボルギーニの横に立った。

艶のある黒髪がさらりと落ち、レースに包まれた柔らかな部分を隠す。脚はすらりと白く、余計な肉がない。清楚で整った顔立ちが、逆に男の欲を煽った。

男たちは車ではなく、彼女を見て足を止める。

「この子、車買ったら付いてくんの?」

「夢見すぎ。まあでも、裏で誘えばいけるだろ。こういうの、だいたい安いし」

その言葉が落ちた瞬間、空気がすっと冷えた。

屈強な護衛がずかずかと人を押し退け、道を作る。

現れた男はサングラスをかけ、冷たい白い肌に、近寄りがたい気配を纏っていた。

その佇まいだけで、ただ者じゃないとわかる。

鈴村茜は一目で悟った。

龍崎燈真だ。

龍崎燈真の助手、幸尾が低く尋ねる。

「龍崎様、この車にいたしますか」

「こんな程度、俺の目には入らねえ」

龍崎燈真は薄い唇を冷たく吊り上げた。

「……が、増やすのは構わない」

幸尾が頷く。

「承知しました。すぐ管理者に話を通します」

龍崎燈真がサングラスを外す。

黒曜石みたいな瞳が、ひやりとした光を放った。

車展が始まって数分。

噂の龍崎様がランボルギーニを持っていった。

高橋さんが鼻で笑う。

「やるじゃねえか。龍崎様まで引っかけたか?」

吐き捨てるように続ける。

「三年も会社にいて、普段は俺に触らせもしねえから清純ぶってると思ったら、裏じゃ尻軽の娼婦かよ!」

鈴村茜は上着を羽織り、何も言い返さず化粧室を出た。

向かうのは休憩室。

扉を押し開けると、鈴村茜は笑みを貼りつけ、柔らかな目を作った。

龍崎燈真がグラスを揺らす手が、ぴたりと止まる。

「龍崎様、お待たせしました」

鈴村茜は媚びるように酒を注いだ。

次の瞬間、顎を持ち上げられる。

無理やり視線を合わせさせられた。

鈴村茜は怯えなかった。

むしろ、笑みを深くする。

「笑うな」

男の指が彼女の目尻をなぞる。触れ方は優しいのに、言葉は骨まで冷たい。

「俺の前で笑う資格はない」

鈴村茜は、笑うのをやめた。

しばらくして、龍崎燈真は彼女の顔を押し退け、赤ワインを一気に飲み干す。

「いい。幸尾に連れていかせろ。契約は三年」

三年――。

鈴村茜の瞳が、静かに沈む。

「何だ。短いか?」

「……十分です。ありがとうございます、龍崎様」

契約書にサインした瞬間、身体が自分のものではなくなった気がした。

自由も、尊厳も。

――けれど、それはとっくに失っていた。

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