第5章 子どもは誰の?!
室内には、まだ靡いた余韻が濃く漂っていた。床には衣服が散らばり、足の踏み場もない。
鈴村茜は痛みをこらえながら身を起こす。隣は――空っぽだった。
手を伸ばしてシーツに触れると、かすかな熱だけが残っている。
階下では、龍崎燈真が朝食を取っていた。
シャワーを浴びたばかりの彼は清潔な匂いをまとい、ゆったりした黒の部屋着がよく似合う。眉目も、いつもより整って見えた。
鈴村茜が近づいても、彼は淡く一瞥するだけ。
「龍崎様」
「……ん」
声は乾いていて、感情の起伏が読み取れない。
「このあと、出られますか」
「……ん」
「それなら……龍崎様。あの……私の子に、会わせてもらえませんか」
口にした瞬間、しまったと思って口元を押さえた。
龍崎燈真は大きく反応しない。ただ、ほんのわずか動きが止まっただけ。
彼はもう知っている。鈴村佳澄が鈴村茜の子だということを。
龍崎燈真が目を上げる。冷えた視線が刺さる。
「子どもに会いたい? なら先に言え。誰の子だ」
「わ、私……」
鈴村茜は指を絡め、爪先まで強張る。――わからない。あの夜、何が起きたのかさえ曖昧で。
「まさか、どこの男の子どもかもわからねえって言う気か」
ぽた、ぽた、と涙が落ちた。
それがさらに龍崎燈真の癇に障ったらしい。眉間が険しくなる。
「言わねえなら会わせねえ。娘に会いたいなら吐け」
「燈真……」
怖くて、鈴村茜は彼の手を掴んだ。
次の瞬間、振りほどかれる。視線すらくれない。
吐き捨てられた言葉が、刃みたいに胸を抉った。
「触るな。汚い」
――そう。汚い。
五年も恋人でいたのに、彼に初めてを渡さなかった。
なのに、わけもわからないまま奪われた。相手が誰かもわからない。
説明する力も、もう残っていない。
それ以来、龍崎燈真は彼女のもとへ来なくなった。連絡もない。
鈴村茜は、娘の居場所すら掴めないままだった。
ユメモデル会社は、あらゆる商業イベントを請け負う。
中でも主な仕事は、夜の店へのモデル派遣だった。
高橋が名簿を手に、今回のランウェイ要員を発表する。
鈴村茜の名前もあった。
夜の店がどれほど荒れているか、D市の人間なら誰でも知っている。
しかも運の悪いことに、彼女がその夜場へ行く日、龍崎燈真がA市から戻る予定で、秘書が迎えに来ることになっていた。
「高橋さん……清唱夜場の間、休みをいただけませんか」
鈴村茜は背筋を伸ばし、まっすぐ立った。
事務所には煙草の匂いがこもっている。
高橋はモデル写真をぱらぱらとめくり、目も上げない。
「休み? 何日だ」
「三日です」
「三日? お前、向こう五日だろ。休んだら何日残るんだよ」
「急用が……」
写真をめくる手が止まり、高橋の声が低くなる。
「急用? 逃げる気だろ。鈴村茜、今回は決定だ。行け」
鈴村茜は拳を握りしめ、腹の底の怒りを噛み殺す。
それでも、もう一度だけ頭を下げた。
「高橋さん……」
高橋がようやく顔を上げ、露骨な蔑みを向ける。
「急用ってのは、腹の出たジジイの相手か?」
そして、ねっとりした笑い。
「ジジイには股開くのに、俺とは一回も寝ねえのかよ」
伸びてきた手が、鈴村茜の手首を掴む。
「俺の言うこと聞いて俺についてりゃ、いい思いさせてやる。ほら、この白い手。ジジイに触らせるなんて、もったいねえだろ」
鈴村茜は顔を冷やしたまま、手を引き抜いた。
「用があるので失礼します」
「おい! 逃げんな! 行けって言ってんだろ! 逆らったらどうなるかわかってんだろうな!」
――
龍崎燈真は確かにA市から戻っていた。
鈴村茜は料理を作り、一日中、息を詰めて待った。少しでも機嫌を取れれば、と。
空が白みはじめ、うとうとしかけた頃。秘書から電話が入る。
――今日は行かない。
眠気が一瞬で吹き飛んだ。
冷めきった料理が並ぶテーブルを見て、思わず笑えてくる。
彼はもう、彼女に情などない。
愛し合った恋人ではない。
ただ養われていた女。
龍崎燈真を待ち続けた代わりに届いたのは、ユメモデル会社からの契約違反通知だった。
高橋は椅子にふんぞり返り、得意げに言い放つ。
「6000万だ。ひと月以内に払え。払えなきゃ牢屋行きだぞ」
鈴村茜は俯いたまま会社を出た。胸が重い。
そのとき、黒いベントレーがすっと横に止まる。
ドアが開き、品のいい男が降りてきた。
「茜!」
温井千景が手を振り、満面の笑みを向ける。
鈴村茜は返事をしない。――それどころか、反射的に逃げようとした。
