第6章 龍崎様と出会う
温井千景は、彼女が大学で知り合った先輩だった。
三年前、妊娠を理由に退学した鈴村茜を、出産の間ずっと世話してくれたのも温井千景だ。
あのとき彼は言った。地方からD市へ出てきて学び、挙げ句に妊娠までしたら、この先の人生は壊れてしまう、と。
だから自分と結婚しろ、と。雨風をしのげる場所を用意してやる、子どもにも家を与えられる――そう真剣な目で。
茜は断った。ほどなくして温井千景は海外へ渡り、気づけばもう、長いこと会っていない。
それなのに、今日になって――。
「君がここにいるって聞いてさ。来たら、すぐ見つけた」
温井千景の眉目は昔のまま、穏やかで優しい。整った顔立ちにはどこか柔らかな気配があり、笑われるだけで胸の奥がじんわり温まる。
「モデルやってるの? ちょうどこの三年、俺はアメリカで経営を学んでたんだ。いずれモデル事務所を立ち上げたら、真っ先に君を契約する」
「……いいの、千景。私……ちょっと用事が……」
三年という時間と、息をするだけで精一杯の生活が、鈴村茜からいろんなものを奪っていた。温井家の若様――そんな人が自分を気にかけてくれていたことさえ、薄れかけていたのに。
立ち去ろうとした瞬間、温井千景は迷いなく彼女の腕を掴み、車のほうへ引いていく。
「茜、友達の顔を立てて。三年ぶりだろ。飯くらい奢らせてくれ」
逆らいきれず、茜はそのまま車に乗せられた。
D市でも名の知れた日栄レストラン。出入りするのは上流階級ばかりだ。
席に着くと、茜の黒髪がさらりと肩に落ちた。化粧もしていないのに、顔立ちは清潔で、静かな透明感がある。
温井千景は、ふと見入ったように言葉を失う。
「千景……覚えててくれて、ありがとう。でも……私、評判がよくないの。近づかないほうがいい」
「何言ってるんだよ。俺たちの友情が、身分ひとつで壊れるわけないだろ」
「……ありがとう、千景……」
「茜、この三年どうだった? 元気にしてたか?」
「……それなりに」
「結婚は? それとも……彼氏とか」
脳裏に浮かんだのは、龍崎燈真だった。
けれど自分たちは、愛し合う恋人じゃない。包われる側と、包う側――それだけ。
「いないよ」
答えた、その直後。
視界の端に、入口から入ってくる男女が映った。
「龍崎様、こちらへどうぞ」
龍崎燈真は背が高く、引き締まった体つき。冷たく近寄りがたい雰囲気なのに、顔立ちは目を奪うほど整っている。人混みの中でも、そこだけ空気が変わる。
その隣には、ピンクの大きなウェーブの髪の女。ボディラインを強調するタイトスカートが艶めかしい。
鈴村茜の身体が、ぴくりと強張った。
視線に気づいたのか、龍崎燈真がふいに振り返る。周りを一瞥し――茜を見た。
その瞬間、床に穴があれば潜りたかった。
龍崎燈真はわずかに眉をひそめ、瞳の奥は読めない。
ウェーブの女が振り返り、媚びた笑みを浮かべる。
「どうしたの?」
龍崎燈真は、茜から視線を外した。
茜の指先は冷え、かすかに震えている。
温井千景は異変に気づかず、首を傾げた。
「茜、具合悪いのか?」
茜はぎこちない笑みを貼りつける。
「大丈夫……ごめん、先に帰る」
「まだ何も食べてないだろ」
「また今度……ありがとう、千景」
「送るよ」
「いいの!」
日栄レストランを飛び出すと、いつの間にか霧雨が降っていた。茜は腕を抱え、人気のない隅で雨が止むのを待つ。
夜十時。ようやく中区の別荘へ戻った。
玄関を開けた瞬間、ぞくりと冷気が背を撫でた。
「龍崎様……」
「来い」
茜は指を絡め、緊張で喉を固くしながら、ゆっくり近づく。
次の瞬間、歩みを止める間もなく男の胸に引き寄せられた。
冷たい気配と、濃い酒の匂い。息が詰まり、茜は不快に身をよじる。
「俺が数日いねえだけで、男を作ったか」
「違う、千景は……」
「温井千景?」
龍崎燈真が眉を上げ、茜の顎を掴む。容赦のない力に、骨が軋む。
「ずいぶん親しげに呼ぶな。なんだ、その距離感」
茜は痛みをこらえ、声を絞った。
「温井千景は、友達です」
龍崎燈真の目に陰が落ちる。
「ベッドで遊ぶ友達か?」
