第1章

 野原さんのデスクに辞表を置いたとき、意外なほど指先は震えなかった。

「月島さん、本当にこれでいいのかい?」

 野原さんは眼鏡の位置を直しながら、驚きを隠せない様子だった。

「長年勤めてくれた君が、こうしていきなり辞めてしまうなんて……本当に惜しいよ」

 私もため息をつき、残念そうな素振りを見せる。

 だが次の瞬間、私は真摯な表情を作って彼に告げた。夫の仕事がシカゴで軌道に乗ったこと、そしてこれ以上離れて暮らすのは子供の成長によくないということを。

「ご存じの通り、安定した愛情のある環境こそが、子供の成長には不可欠ですから」

 野原さんは頷き、その目に同情の色を浮かべた。

「なるほど。確かに、一人で子育てをするのは大変だっただろう。君の旦那さんがアメリカにいるとは知らなかったよ。てっきり、ずっとシングルマザーなのかと思っていたからね」

 その誤解を、私は訂正しなかった。

 これまでは、確かに違ったけれど。

 もうすぐ、名実ともにそうなるのだから。

 人事部を出て、私は無意識のうちに企画部のほうへと視線を向けていた。

 給湯室の磨りガラス越しに、黒崎修がコーヒーを注いでいるのが見えた。

 チャコールグレーのスーツが、彼の長身を包み込んでいる。袖口のシルバーのカフスが、照明の下で冷ややかな光を反射していた。

 六年という歳月が過ぎても、彼は相変わらず芸術品のように完璧だった。

 戸籍上、この芸術品が私の最も親密な伴侶であるにもかかわらず。

 私の夫。

 そして、私の子供の父親。

 だが皮肉なことに、彼は誰よりも私を憎んでいる人間でもあった。

 かつて私は、彼の最も有能な部下だった。だがある夜、酒に酔った勢いで私たちは過ちを犯し、子供を授かった。

 その後、私たちは結婚した。けれど彼は、私に関するすべてを拒絶した。子供が彼を「パパ」と呼ぶことさえも。

 私は給湯室に入り、陽斗の幼稚園で行われる親子運動会に参加できるか尋ねようとした。

 彼が来るとは思っていない。けれど、陽斗はずっと父親の参加を待ち望んでいる。

 あの子を悲しませたくなかった。

「部長」

 そう声をかけた瞬間、彼の瞳から温度が消えた。私に話しかけられること自体が不快だと言わんばかりに、あからさまに眉を寄せる。

 彼はコーヒーを手に踵を返した。ほぼ同時に、久良由美が笑顔で入ってくる。彼女の指が、自然な仕草で彼のスーツの裾に絡んだ。

「部長ぉ、企画書のここ、ちょっと分かんないんですけどぉ……」

「ああ、後で執務室に来なさい」

 声色が、瞬時に柔らかいものへと変わる。わざわざ屈み込んで、彼女の話を聞こうとするほどに。

 その忍耐強さと優しさを目の当たりにして、私は言葉を失った。

 私はその場に立ち尽くし、去っていく二人の背中を見送ることしかできなかった。

 スマホが震える。

 息子の陽斗からだ。

『ママ、パパきょうくるかな? かけっこ、みてほしいんだ』

 視界が一瞬、涙で歪んだ。廊下の突き当たりに目を向けると、黒崎が風で乱れた久良の髪を、優しく直してあげているところだった。

 結果は分かっていたが、それでも私は彼にメッセージを送った。

『今日の午後、幼稚園で親子運動会があります。時間ありますか? 運動会の後、陽斗の誕生日を祝いたいのですが』

 十メートル先で、彼がスマホを取り出すのが見えた。画面が明るく光る。

 だが、彼は無表情のまま、すぐにそれをポケットに仕舞い込んだ。

 私は瞳を閉じた。

 分かっていたはずだ。彼が私を愛していない以上、二人の間に生まれた子供に、ほんの僅かでも愛情を抱くはずがないと。

 でも、もうすぐだ。

 もうすぐ、誰もが解放される。

 幼稚園の駐車場で、陽斗は背伸びをしながら、車の窓ガラス越しに外を覗き込んでいた。

「ママ、パパきた?」

 私はシートベルトを外し、努めて明るい声で言った。

「パパはね、急に大事な会議が入っちゃったの。だからママに『代わりに陽斗を応援してやってくれ』って」

 陽斗の瞳が陰る。だが、それはほんの一瞬だった。

 次の瞬間、彼は満面の笑みを浮かべた。

「だいじょうぶ! ママがきてくれたら、それでいいよ!」

 六歳の子供が、すでに大人の顔色を窺い、母親を慰めるために明るく振る舞うことを覚えている。

 私はしゃがみ込み、彼をきつく抱きしめた。

 ごめんね。ママが不甲斐ないばかりに。

 運動会が始まると、陽斗は誰よりも速く走り、リレーではトップでゴールテープを切った。彼は景品のマッサージ枕を抱きしめ、興奮気味に言った。

「ママ! これ、パパにあげるんだ! いつも肩がいたいっていってたから!」

 心臓を強く鷲掴みにされたような痛みが走る。彼が運動会にパパを呼びたがっていた理由は、これだったのか。直接、パパにプレゼントを渡したくて。

 家に帰り着いたのは夕方だった。バッグを置いた直後、スマホが鳴った。

 黒崎修からの返信だ。たった一言、『分かった』と。

 私は呆然とし、我が目を疑った。

 陽斗はローテーブルにへばりついて宿題をしていた。私は彼に歩み寄り、震える声で告げた。

「陽斗、パパが今夜、お誕生日のお祝いに帰ってくるって」

「ほんとう!?」

 陽斗が勢いよく顔を上げる。その瞳は星のように輝いていた。

 六年目にして初めて、彼が陽斗の誕生日を祝うために帰宅すると約束してくれたのだ。

 私は夕食の準備に取りかかった。

 黒崎修が好む照り焼きチキン、陽斗が大好きなクリームシチュー、そして特注の苺のショートケーキ。

 陽斗は宿題を終えると、玄関のマットに座り込んだ。小さな手には、あのマッサージ枕が握りしめられている。彼は微動だにせず、ドアを見つめ続けていた。

 七時。

 九時。

 五通送ったメッセージに、返信は一つも来ない。

「ママ……」

 陽斗の声は消え入りそうだった。

「パパ、まただいじなおしごとなのかな?」

 泣き出しそうなのを、彼は必死に堪えている。

 私は彼の前にしゃがみ込み、何か言おうとしたが、喉が詰まって声が出なかった。

「だいじょうぶだよ!」

 陽斗が突然笑った。その眼縁は赤く染まっている。

「ママがお祝いしてくれればいいもん! ケーキ、いっしょにたべよう?」

 彼がソファからバースデーハットを取り出し、私に差し出した。

「ママ、これかぶせてくれる?」

 その帽子を受け取ろうと手を伸ばした瞬間、スマホの画面が明るく光った。SNSの通知だ。

 久良由美が、新しい写真を投稿していた。

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