第2章

 スマートフォンの画面。久良由美の新しい投稿が、息もできないほどに目に突き刺さる。

 洗練されたフレンチレストラン、揺らめくキャンドルの灯り。

 写真の中のステーキは完璧な焼き加減で、ワイングラスの中で深紅の液体が煌めいている。

 何より致命的なのは、そこに写り込んだ細長い手。その薬指には、何もなかった。

 画像を拡大する。

 それは、黒崎修の手だ。

 袖口のシルバーのカフスボタンに見覚えがある。

本来そこにあるはずの結婚指輪は、外されていた。

 指先が画面の上で彷徨い、最後には「いいね!」を押した。

「ママ?」

 陽斗が私の服の裾を引っ張る。

「もうケーキ食べていい?」

 私はスマホを閉じ、しゃがみ込んで彼にバースデーハットを被せた。ピンク色の帽子が、照明の下でひどく眩しい。

「お誕生日おめでとう、私の宝物。さあ、願い事をする番よ」

 陽斗は目を閉じ、小さな両手を合わせる。その真剣な様子は、まるで祈りを捧げているようだ。

「一つ目のお願いは、ずっとママと一緒にいられますように」

 心が瞬時に解けていく。

 黒崎にどれほど傷つけられようと、私には陽斗さえいればいい。

「二つ目は、ママがずっと綺麗で元気でいられますように」

 目を開けて私を見つめるその瞳は、胸が張り裂けそうなほど澄んでいた。

「三つ目は、もっと背が高くなりたい。そうしたら幼稚園のみんなにチビって言われないから」

 私たちは顔を見合わせ、笑い声を上げた。

「陽斗はすぐに大きくなるわ。とっても素敵なイケメンになるんだから!」

 笑い声に、微かな痛みが混じる。

 彼は、「パパが帰ってきますように」とは願わなかった。

 まだ六歳だというのに、叶わないものを望んではいけないと、もう学んでしまっているのだ。

「ママはずっとそばにいるわ」

 彼を強く抱きしめ、心の中で呟く。

『もうすぐよ。もうすぐ私たちは自由になれる』


 陽斗が寝息を立て始めると、私は引き出しの最奥から離婚届を取り出した。

 何もいらない。陽斗さえいれば。

 深夜、玄関で鍵の回る音がした。

 黒崎修が入ってくる。スーツの上着を腕にかけ、ネクタイは緩んでいる。

 ローテーブルの上のケーキを目にした瞬間、彼の足が止まった。

「悪かったな」

 その声に、ようやく僅かな罪悪感が滲む。

 私は何も言わず、離婚届の最後のページを差し出した。

「サインして」

 彼は呆気にとられ、口を開きかけたその時――スマホが鳴り響いた。

 画面に踊る名前は『久良由美』。

「修くん、パパたちと喧嘩しちゃったの……すごく悲しい。今から来てくれない?」

 電話の向こうから、私にさえはっきりと聞こえるほどの泣き声が響く。

 黒崎修の表情が一変した。罪悪感は焦燥へと塗り替えられる。

「泣くな、すぐに行く」

 彼は協議書の中身すら確認せず、ペンを掴んで殴り書きのように署名すると、踵を返して外へ飛び出した。

 目の前でドアが閉まる。

 私はその乱雑なサインを見つめ、ふと笑みがこぼれた。

 黒崎修、今日という日を一生覚えておくといい。

 あなたは息子の誕生日に、この家を捨てることを選んだのだから。


 翌朝。

 黒崎修は美しく包装された紙袋を提げて帰宅した。

 彼は珍しく穏やかな口調で陽斗に言った。

「陽斗、昨日はすまなかった。これ、誕生日プレゼントだ」

 陽斗が私を見る。その瞳には、明るく燦然とした驚きが宿っていた。

 私は小さく頷く。

 すると陽斗が不意に口を開いた。

「僕も、パパにプレゼントがあります」

 黒崎修がキョトンとする。

 陽斗は昨日、運動会の景品で貰ったマッサージクッションを興奮気味に差し出した。

「パパ、いつも首が痛いって言ってたから、これあげます。運動会で頑張ってもらったんだよ」

 褒めてもらえるのではないかと、期待に満ちた眼差しを向ける。

 しかし黒崎修は一瞥しただけで、素っ気なく言った。

「ああ、分かった。ありがとう」

 陽斗は少し落胆したが、すぐに気を取り直した。

 彼は手を伸ばして紙袋を受け取り、期待に胸を膨らませて開封する。

 中から出てきたのは――茶色の犬のぬいぐるみだった。しかも、鳴き声を上げるタイプの。

 子供への贈り物としては、至極真っ当だ。

 だが、陽斗の顔色は瞬時に青ざめた。

 彼は助けを求めるように私を見上げる。

 私は素早くそれを取り上げ、平然とした声で黒崎修に礼を言った。

「陽斗、お礼は?」

 不安と恐怖に震えながら、陽斗は必死に声を絞り出す。

「ありがとう……ございます」

 黒崎修は眉を顰め、陽斗の態度が無礼だと感じたようだ。

 彼は何も言わなかった。

 陽斗が幼稚園のバスに乗り込むのを待って、彼は口を開いた。

 子供の躾がなっていない、と私を詰問する。

 私は皮肉も言わず、怒りも見せず、ただ淡々と問い返した。

「陽斗が四歳の時、あなたが散歩に連れて行って公園に置き去りにし、野良犬に噛まれたこと……忘れたの?」

 それ以来、陽斗は犬という存在そのものに恐怖を抱くようになった。

 黒崎修の顔から血の気が引く。何か言いかけたが、結局、言葉にはならなかった。

 それもそうか。

 彼が申し訳ないなどと思うはずがない。

 彼の中に残っているのは、私と陽斗への嫌悪だけなのだから。


 午後、黒崎修に給湯室へ呼び出された。

「由美が親と揉めて、数日泊まる場所が必要なんだ」

 彼は単刀直入に切り出した。

「その間、お前と陽斗はホテルにでも行っててくれ。ちょうどいい機会だし、あいつを遊びに連れて行ってやればいい。費用は全部俺が出す」

 耳を疑った。

「つまり、私と陽斗に出て行けと? 久良さんを家に住まわせるために?」

「俺たちが結婚していることは会社には秘密にするって決めたろ」

 彼はそれが当然だという顔をする。

「同僚に、俺の家に女と子供がいるって知られたら面倒なことになる」

「それで、妻と息子を追い出す解決策を選んだの?」

 妻という立場にもう未練はないけれど、黒崎修のあまりに常軌を逸した振る舞いには言葉を失う。

「追い出すんじゃない、一時的な回避だ」

 彼は眉を寄せた。

「お前、いつからそんなに物分かりが悪くなったんだ?」

 彼を見ていると、ふいに滑稽に思えてきた。

「分かったわ」

 私は頷く。

「すぐに荷物をまとめて出て行く」

 どうせ去るつもりだったのだ。少し早まるだけで、何も変わらない。

 黒崎修は明らかに虚を突かれたようだった。これほどあっさり承諾するとは思わなかったのだろう。

「そうか……理解してくれて助かる。埋め合わせはするから」

 背を向けて歩き出すと、彼が安堵の息を吐くのが聞こえた。

 夜七時。私はスーツケースを引きずって玄関へ向かった。

 ドアを開けた瞬間、片手でピンク色のスーツケースを押しながら階段を上がってくる黒崎修と鉢合わせる。

 その腕には久良由美が絡みつき、守られるべき少女のような可憐な笑顔を浮かべていた。

 視線が交錯する。

 黒崎修の瞳に、狼狽の色が走るのを私は見た。

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