第1章
真夜中。水原琴音(みずはら ことね)が目を覚ますと、リビングの明かりがついていた。
そこには――夫が、義理の妹を腕の中に抱き寄せ、優しい声で慰めている姿。
いつもなら、琴音に対して冷たく苛立ちを隠さない和也が、今夜に限っては信じられないほど辛抱強い。
「寧々、君のせいじゃない。悪いのは琴音だ。あいつが俺たち二人の人生を壊した……! もしあいつがいなければ、今ごろ俺の妻は君だった」
最後の一言は、怒りを抑えきれずに吐き捨てるようだった。
寧々は恥じらうように、けれど悔しそうに小さくうなずき、彼の服の裾を指先でつまむ。
「和也……私も、あなたと結婚できなかったのは残念。でも、もう起きたことだし……。私と子どもがこのまま住みついたら、琴音さん、怒らないかなって……」
石川和也(いしがわ かずや)の瞳がさらに冷えた。
「奴に決める権利はない」
琴音は両手を強く握りしめた。胸の奥に広がる痛みで息が詰まり、うまく呼吸ができない。
当時、石川寧々(いしがわ ねね)が結婚した件だって、何度も何度も説明した。それでも和也は、琴音が仕組んだのだと信じて疑わない。彼の「大事な妹」を未婚で妊娠させ、ろくでもないクズ男に嫁がせたのだと。
唇を噛みしめる。
寧々がつま先立ちになり、二人の視線が絡む。艶めかしい空気が、じわりと濃くなる。
――このまま、キスする。
そう確信した瞬間、琴音はついに堪えきれず声を出した。
「……何してるの?」
リビングの灯りが、ぱっと眩しく感じた。
和也はほとんど反射で寧々を押しのけた。だがすぐに、なぜ自分がやましい顔をする必要がある、とでも言いたげに眉をひそめる。琴音など、所詮は政略結婚の妻にすぎないのだ。
「夜中に寝ないで、なんで急に出てくるんだ」
琴音は口元を吊り上げ、薄く嘲る。
「私が黙ってたら、キスしてたでしょ?」
「黙れ!」
和也の顔に一瞬だけ動揺が走り、すぐに大声で怒鳴りつけた。
「琴音! 余計なことを言うな。俺は寧々を少し慰めてやっただけだ」
その言い訳が、あまりに滑稽で。
琴音は笑いそうになった。
「慰めるのに、抱きしめる必要があるの? 忘れたの。あなた、既婚者よ」
さっき自分が声をかけなかったら、二人はこの先、何をしていたのか。
妻である自分の存在など、最初から無いもの扱い。白昼堂々――いや、夜だからなおさら悪質だ。リビングで堂々と不貞を働く気だったのだ。
和也は怒りを含んだ低い声で言い放つ。
「琴音、言い方があるだろう! お前のせいで寧々はあのクズ男と結婚する羽目になった。だかDVまで受けたんだ!」
そう言いながら、彼は寧々の袖をまくり上げた。露わになった腕には、青紫の痣がいくつも広がっている。
「これを見ても胸が痛まないのか。俺が寧々を慰めて何が悪い。お前は浮気を咎めるみたいな目で責めて……どういうつもりだ?」
寧々は慌てて腕を引っ込め、怯えたように口を開く。
「お兄ちゃん、琴音さんに怒らないで……全部、私が悪いの。私が戻ってこなければよかった。今すぐ炎を連れて出ていくから……」
そう言って立ち上がろうとした彼女を、和也が遮った。異論など許さない声音。
「関係ない。ここに住め。琴音が騒いでるだけだ、相手にするな」
琴音は呆然とした。
――自分が、無理を言っている?
和也と寧々がキスするのを眺め、微笑んで祝福でもしてやれば「道理が通る」のか。
和也が寧々に向ける眼差し、その柔らかさが、琴音の目を刺した。
その「特別扱い」は、彼女が何年も求め続けても、手に入れられなかったもの。
努力すれば、尽くし続ければ、氷みたいに冷たい彼の心もいつか溶ける――そう信じてきたのに。
今になって分かる。
彼の愛は、すべて寧々に注がれていた。相手が義理の妹であろうと、関係ない。
胸が裂けるほど痛い。見えない刃が心臓のあたりを何度も何度も抉ってくる。
十年。十年も愛してきた。身を削って尽くして――返ってきたのは「騒ぐな」だ。
寧々は涙を浮かべ、感動したように言った。
「私、頼れるのはあなただけ……」
琴音が言い返そうとした、その時だった。
隣の部屋の扉が勢いよく開く。
小さな男の子が布団をかぶったまま飛び出してきて、琴音の腹に思い切り体当たりをした。
「悪い女! ママをいじめるな!」
不意打ちだった。琴音は耐えきれず、背中から床へ叩きつけられる。
「炎!」
寧々が悲鳴のように呼び、転んだ(いしがわ ほのお)を抱き起こす。
「炎、怪我してない? ママに見せて……」
琴音は痛みで息を吸い込み、起き上がる力すら出ない。
和也も足早に近づいてきた。
――助け起こしてくれるのか。
そう思った琴音に返ってきたのは、容赦のない叱責だった。
「琴音、いつまで芝居を続ける気だ。三歳の子どもにぶつかられた程度で転ぶか?」
琴音が伸ばした手は、空中で固まった。
他人でも、転んだ人を見れば手を貸す。なのにこの男は、彼女の痛みを見ず、演技だと決めつける。
足元から冷えが這い上がり、心臓ごと凍らせていく。
和也は冷たい顔で言い放つと、すぐ寧々へ向き直り、優しく声をかけた。
「寧々、炎の様子が心配なら、あとで家庭医を呼んで診せよう」
琴音は信じられないものを見る目で、歯を食いしばった。
「ぶつかってきたのは、あの子よ。責任はないの?」
痛む体を無理やり起こす。肋が砕けそうだった。
けれど、それ以上に胸が痛い。
普段なら炎の体当たりで倒れるはずがない。だが――もし自分が怪我をしていたら。もし痛む箇所に当たったら。
三か月前。和也が恨みを買い、車での報復を受けかけた。
琴音は彼を突き飛ばして助けた代わりに、自分が車に跳ね飛ばされ病院送りになった。
退院したのは、ほんの一週間前。
その日、和也は寧々と子どもを迎えに行くのに忙しく、病院にもまともに来なかった。
今となっては、そのことさえ忘れているようだった。
それどころか、またしてもすべての責任を彼女に押し付けている。
「大人が子ども相手にムキになるな」
和也は苛立たしげにそれだけ言い、寧々の腕から炎を受け取る。
「炎、もう遅い。部屋に戻って寝ような」
炎は自然に和也の首にしがみついた。
「じゃあ一緒に寝て。ママにお話してもらう」
「いいよ。今日は何のお話にする? ママが読んであげる」
寧々が微笑む。
どこから見ても、仲睦まじい家族だった。
父と母、愛される子ども。
そこに琴音の居場所はない。
ひとり、リビングに立ち尽くし、扉が閉まるのを見送る。
唇が苦く歪む。
最初から最後まで、誰一人、彼女の怪我を気にしない。
自分は何だ。
この「幸せな家族」を壊しに来た邪魔者なのか。
――違う。妻は、自分だ。
琴音は顔を上げた。目の奥に砂を撒かれたように痛い。
部屋から聞こえる笑い声。その間も彼女は、体を支えるのがやっとなのに、和也は一言もかけない。
長年の悔しさと辛さが、どっと溢れた。
自分が笑い話みたいだ。徹頭徹尾の、笑い話。
琴音はゆっくり自室へ戻り、鎮痛剤を二錠飲んで、ようやく眠りに落ちた。
翌日、琴音は痛む体を引きずりながら会社へ出た。
和也は寧々にかかりきりで、会社の面倒な雑務はすべて琴音が回している。
丸一日走り回り、昼食も取れないまま、こめかみを揉んでいると、スマホが鳴った。
和也の友人からだ。
「奥さん、和也が飲みすぎてさ。今、バーにいるんだけど迎えに来てくれない?」
「分かった」
通話を切ると、琴音は車の鍵を掴み、急いで店へ向かった。
個室の扉に手をかけたところで、中からどっと笑い声が漏れる。
「和也、いい身分だよなぁ。奥さんもいて、愛人もいてさ。両手に花、人生勝ち組。ぶっちゃけどっちが好き? 奥さん? それとも愛人? どっちが気持ちいい?」
琴音は足を止め、息を殺した。
