第2章
「琴音には一度も手を出していない。俺はずっと、汚れていない」
たったそれだけの一言が、正面から飛んできた冷たい刃のように、琴音を真っ二つに切り裂いた。
全身の血が一気に逆流したように体が固まり、身動き一つとれない。その瞳には驚愕だけが浮かんでいた。
和也は自分に触れていないから「汚れていない」――つまり、寧々のために身を守っているということか。
その言葉に、同席していた友人たちもさすがに一瞬言葉を失った。
「あの時、爺さんが無理に結婚させなきゃ、俺だって娶ってない」
そう言うと、和也はいら立ち紛れにグラスの酒を煽った。
友人たちは顔を見合わせ、からかうように言った。
「さすが和也、ガチの一途だな。琴音ちゃんみたいな極上美人を目の前にしても揺らがないとは」
「俺が相手の女なら、これ聞いたら感動して泣くぜ」
琴音の瞳が虚ろになる。
この数年、関係を深めようとしなかったわけではない。けれど彼はいつも、何かと理由をつけては拒んできた。
根本的な原因は、ここにあったのだ。
和也はやはり寧々を忘れていなかった。彼女に子どもがいようとも。
――なんて痴情なのだろう。
琴音はひどく皮肉に思った。その時、室内にいた目ざとい男が琴音に気づき、わざとらしく咳払いをした。
「琴音ちゃん、来てたの? どうして入ってこないんだ?」
和やかで楽しげな空気が、彼女の出現で唐突に打ち破られる。
琴音は鋭い爪を掌に食い込ませる。その痛みで、どうにか取り繕った笑みを浮かべた。
「今着いたところよ」
和也は薄い唇をきつく結び、いら立ちを隠そうともしない。
誰かが探るように口を開いた。
「じゃあ、琴音ちゃんも来たことだし、俺らは先に出るよ。和也も飲みすぎんなよ」
琴音が口を開くより早く、入り口から明るい笑い声が響いた。
「えー、私が来たばっかりなのに、もう帰っちゃうの?」
完璧にメイクを整えた寧々が入り口に姿を見せると、和也の目が瞬時に輝いた。
彼はほとんど焦るように立ち上がった。
「寧々、どうして来たんだ? 炎は?」
寧々は優しく微笑む。
「炎は家にいるよ。私たちに帰ってきてお話してほしいって駄々こねてたけど……飲み会の邪魔したくなかったから、理由をつけて先に寝かせたの」
「酒なんてどうでもいい。今すぐ帰ろう」
そう言うと、和也はごく自然に寧々の手を取り、部屋を出ていった。
最初から最後まで、琴音には視線ひとつ寄こさなかった。
琴音はその場に立ち尽くし、遠ざかる二人の背中を見送った。そして和也の友人たちの気まずそうな表情を見た瞬間、見えない平手打ちを頬に食らったような気がした。
事情を知らない人が見れば、寧々と和也こそが家族だと思うだろう。
妻である自分は、まるで透明人間のようだ。
琴音はどうやって帰宅したのか覚えていない。
一人ぽつんとソファに座り、ぼんやりと時計を見つめ続けた。
二時間後。ようやく玄関の扉が開かれた。
琴音が無意識に顔を上げてそちらを見ると、真っ先に和也の首筋の痕跡が目に飛び込んできた。
密集した赤い跡。この数時間で何があったのかを、雄弁に物語っている。
琴音の呼吸が止まる。
寧々は足取りもおぼつかない様子で彼の後ろに続き、わざと甘えた声を出した。
「和也、もう歩けない……抱っこして上まで連れてって?」
言い終わりに、彼女は琴音へ挑発するような視線を投げる。
和也は迷うことなく腰を落とし、寧々を抱き上げた。
「上で熱いシャワーを浴びて、ゆっくり休め」
最初から最後まで、二人の目にはソファに座る琴音など映っていないようだった。
琴音の口から、麻痺したような乾いた声が漏れる。
「あなたたち……」
「今は疲れてる。話なら明日にしろ」
和也はいら立たしげにそう言い捨て、二階へ上がっていった。
琴音の言いかけた言葉は喉の奥に引っかかったまま。彼女は和也の背中が消えていくのを、ただ呆然と見つめていた。
結婚して三年。
彼は、妻の言葉を最後まで聞く忍耐すら持ち合わせていない。それなのに、寧々が悪夢を見たというだけで、彼女が眠りにつくまで辛抱強く慰め続けるのだ。
胸の奥が耐え難いほど苦くて、琴音は強く目を閉じた。
その夜、和也は寝室に戻ってこなかった。
琴音はメラトニンに頼ってどうにか眠りにつき、翌日も麻痺したように起きて出社した。
歩みを止めるのが怖かった。少しでも隙を見せれば、和也の寧々に対する異常なまでの偏愛が、頭の中で絶え間なく再生されてしまうから。
疲労困憊の体を引きずって退勤したのは、またしても夜の十時だった。
琴音が帰宅すると、ソファにもたれかかり、顔を紅潮させて焦点の定まらない目をしている和也の姿があった。
荒い呼吸。何かを必死に堪えているようだ。
琴音は驚いて駆け寄り、尋ねた。
「どうしたの? 具合でも悪いの?」
和也の今の状態は、まるで媚薬でも盛られたかのようではないか。
次の瞬間、唐突に手首を掴まれた。天地が反転し、琴音は和也の下に押し倒されていた。
潤んだ瞳、掠れた声。
「苦しい……熱い……」
琴音は瞬時に理解した。彼は嵌められたのだ。
この数年、接待の席で女に言い寄られることがなかったわけではない。だが、和也は毎回きっぱりと撥ね除けてきた。
彼女は慎重に口を開く。
「今すぐ病院に連れていく、それとも……」
和也は何も答えず、突然琴音を抱き上げて寝室へと向かった。
ベッドに放り投げられた時も、琴音はまだ状況を呑み込めずにいた。
焦れたように二人の服を乱暴に引き裂こうとする和也を見て、彼女は唇を噛みしめながら声を絞り出す。
「和也……」
和也の動きが、ぴたりと止まった。彼は軽く頭を振り、ぼんやりと呟く。
「……琴音?」
琴音はうなずく。
「私よ」
次の瞬間、和也は身を起こし、迷うことなく隣の部屋へと向かった。
琴音の頭が真っ白になる。
――覚悟は、できていたのに。
裸足で床を踏み、後を追いかけた琴音は――次の瞬間、大きく息を呑んだ。
和也の手には、赤い下着。目を閉じたままそれを握りしめ、片手を動かしながら低く呟いている。
「寧々……」
