第4章
琴音は体を強張らせた。結果など火を見るより明らかなのに、それでも心のどこかで、彼に一縷の望みを抱いていた。
もしかしたら、私の味方をしてくれるかもしれない、と。
呆然としている間に、寧々はまるで堰を切ったように涙をこぼし、炎の手を引いて和也のそばへ駆け寄った。赤く腫れた目で訴えかける。
「和也……琴音お義姉さん、私たちのこと歓迎してないみたい。やっぱり、私と炎は出て行ったほうがいいのかな……」
そう言うと彼女はしゃがみ込み、炎の顔に流れてもいない涙を拭うふりをした。
無理に作ったような笑顔を浮かべる。
「炎、いい子だから、琴音お義姉さんを恨んじゃ駄目よ。お義姉さんも……わざと炎を驚かせようとしたわけじゃないから」
寧々の言葉を聞き、和也の顔に浮かんでいた怒りがついに爆発した。その眼差しは氷のように冷たい。
「琴音、お前は血も涙もないのか! 子どもにまで手を上げるなんて、正気の沙汰じゃないぞ!」
「炎はお前の甥だろうが!」
琴音の胸の奥に、見えない刃が深々と突き刺さった。
彼女は部屋の隅で静かに佇んでいる。その華奢な体は、風が吹けば倒れてしまいそうだった。
「あなたの中には、私を信じる気持ちなんて、これっぽっちもないの?」
その言葉に、和也はゆっくりと冷酷な目を上げる。
まるでゴミでも見るかのような目で、嘲笑った。
「お前にそんな価値はない」
その一言が、鋭いナイフとなって琴音の心臓を容赦なく抉る。血の気が引き、激痛が走った。
「今すぐ炎に謝れ」
彼女の潔白も名誉も、彼にとっては最初からどうでもいいことだったのだ。寧々を差し置いて、自分を信じてくれるはずなどなかった。
琴音はふっと、憑き物が落ちたように笑い出した。
その唐突な笑い声に、全員の視線が思わず彼女へと向く。
和也は眉をひそめ、さらに声を荒らげた。
「耳が聞こえないのか、俺は謝れと……」
「あなたの目が節穴なのよ、和也」
和也は全身を強張らせ、信じられないという顔で彼女を見た。
出会ったその日から、琴音は彼を一途に愛し続けていた。
最初は彼も心を動かされたことがあったが、後になって寧々から彼女の「本性」を聞かされて以来、嫌悪感は増すばかりだった。
寧々がろくでもない男に無理やり嫁がされ、DVを受けるようになってからは、琴音に対する憎悪は頂点に達していた。
「床に散らばっているのは、全部私の心血を注いだ作品よ。子どもが分からないのは仕方ないとして、あなたたち二人まで目が見えないの? 彼が未成年だというなら、保護者であるあなたたちが弁償してちょうだい」
琴音は和也に視線を移し、ふっと唇の端を吊り上げた。
「あなたが一番彼女を大事に思っているんでしょう? 五億円。今すぐ私の口座に振り込んで。そうすれば、この件は水に流してあげる」
和也の表情が、驚愕から激怒へと変わるのに、わずか一秒もかからなかった。
琴音が自分に金を要求してくるなど、思いもよらなかったのだ。
「琴音!」
「子どもが何を知ってるって言うんだ! お前がこんな絵をその辺に放り出しておかなければ、炎がぶつかることもなかっただろうが!」
「よくもまあ図々しく金を要求できたものだ。お前、何かヤバい薬でもやってるんじゃないのか?」
不気味なものを見るような疑いの目が、琴音に向けられる。
彼女は怒るどころか、冷たく笑った。
「冗談を言っているつもりはないわ」
「これらの絵にどれだけの価値があるか、わざわざ説明するまでもないわよね。一時間だけ待ってあげる。もし口座にお金が振り込まれなければ、午後には内容証明を送りつけるから」
琴音が数歩前に出ると、その全身から放たれる気迫に、和也はさらに眉を深くひそめた。
踵を返そうとした彼女の腕を掴み、和也は歯を食いしばって凄んだ。
「俺を脅してるつもりか?」
琴音は足を止め、白く細い指で、彼の手を一本一本引き剥がした。表情は一切崩さない。
「子どもが分からないなら、大人が責任を取るべきでしょ」
そのまま、彼女は二階の寝室へと歩みを進めた。
彼の本性をすっかり見透かしてしまった今、この家に未練など欠片もなかった。
いっそ、さっさと出て行ったほうがいい。
琴音の荷物は多くない。手早くまとめていると、寝室のドアが乱暴に蹴り開けられた。
「琴音、お前、一体何の真似だ!」
怒り心頭の和也がドアの前に立っていた。彼女が荷造りをしていることに気づくと、再び鼻で笑う。
「くだらない芝居はよせ。今すぐ下へ行って、炎に謝れ」
あの場にいた三人は、琴音の気迫に圧倒されていた。
彼女が立ち去った途端、炎は火がついたように泣き出したのだ。
その泣き声のおかげで、和也は我に返った。
まさか自分が、琴音ごときに気圧されるとは。
琴音は手を止めることなく、手慣れた様子でバッグのファスナーを閉め、視線だけを彼に向けた。
「芝居?」
「私は寧々じゃないの。あなたのお遊戯に付き合っている暇はないわ」
和也の顔色が、青ざめたり赤くなったりと目まぐるしく変わる。
次の瞬間、琴音は机の上の書類を彼の顔に叩きつけた。
「サインして」
和也の首筋に青筋が浮かぶ。怒りを押し殺しながら書類を手に取り、目を落とした。
そこには『離婚協議書』という大きな四文字が印字されていた。
彼は鼻で笑い、呆れたように言った。
「あいつら親子が住み着くから、俺と離婚するって言うのか?」
琴音は冷たく笑い返す。
「自分がどれだけ気持ち悪いことをしてきたか、わざわざ私に言わせる気?」
彼女は背後の小さなボストンバッグに目をやり、言葉を続ける。
「それにサインして、円満に離婚しましょう。財産分与は、私が六割もらうわ」
和也は、頭の中で血が沸騰するような音を聞いた。
琴音は思い通りになる女だった。普段なら、彼が少しきつい言葉をぶつければ、大人しく謝ってきたのだ。
それが今日は、弁護士を呼ぶと言い出しただけでなく、離婚まで突きつけてきた。
だが、そう簡単に離婚などできるわけがない。
それに、彼女が自分を手放せるはずがないのだ。
和也は冷笑した。
「駆け引きのつもりか? 吐き気がするだけだぞ」
今となっては、そんな言葉を聞いても滑稽にしか思えなかった。
琴音は先ほどの彼の言葉を、そっくりそのまま投げ返す。
「駆け引き? あなたにそんな価値はないわ」
「サインすれば、あなたは四割もらえる。サインしないなら、あなたの不倫を世間に公表する。そうなれば、あなたには何も残らないわよ」
これが彼女の最後の譲歩だった。
こんなはした金など眼中にないが、かといって奴らに全額くれてやるつもりも毛頭ない。
もちろん、お爺さんにはこの件を知られたくなかった。
二人の結婚は元々政略結婚だったが、和也の祖父である石川治夫(いしがわ はるお)は、彼女を本当の孫のように可愛がってくれた。お爺さんは今、ただでさえ体調が優れない。これ以上騒ぎを起こせば、余計な心労をかけてしまう。
和也が琴音に向ける眼差しは、怒りに満ちていた。
彼は琴音を指差し、怒鳴り散らす。
「狂ったのか?」
信じられないといった顔をする彼を見て、琴音の唇に冷たい笑みが浮かぶ。
彼が信じられないのも無理はない。
何しろ、自分の態度の変わりようが激しすぎるのだから。
昨日まで自分の言うことに何でも従っていた妻が、突然氷のように冷たくなり、離婚まで突きつけてきたのだ。
信じられるはずがない。
琴音は階段のほうへ視線を向け、冷徹な声で言った。
「あなた、腐っても名門大学を出てるんでしょ。人間の言葉くらい理解できるはずよね。同じことを二度も言わせる気?」
和也の胸の奥で、鬱屈した怒りがさらに膨れ上がった。
「私が離婚すれば、ちょうど寧々と結婚できるじゃない」
「あなたが愛してやまない女よ。日陰の身のままそばに置いておくつもり?」
彼の考えなどとうにお見通しだと言わんばかりに、琴音は口元を覆い、わざとらしく驚いてみせた。
「ああ、そうね。あなた、一生彼女を娶ることなんてできないものね」
