第1章
エヴリン視点
婚約者は初恋のソフィア・ローズのコンサートに間に合わせるため、私を郊外のガソリンスタンドに置き去りにした。
そのせいで私は不良どもに廃倉庫へ引きずり込まれ、輪姦され、挙げ句の果てに致死性のドラッグまで打たれた。
泣いて縋りつく私を、婚約者は冷えた目で見下ろして言った。
「壊れた女なんかいらない。俺の世界から消えろ」
幸せそうな顔のソフィアを抱き寄せたまま背を向け、ほどなくして彼は彼女と結婚した。
絶望の底で私を拾い上げたのが、マフィアのボス、アレクサンダー・ケインだった。
彼は献身的に面倒を見てくれた。言葉で支え、腕のいい医者を揃え、血液浄化手術まで受けさせてくれた。
たとえ私が健康を取り戻せなくても、彼は一生涯私を守ると誓ってくれた。
彼の妻になって五年。暮らしはおとぎ話みたいに甘かった。
――あの夜、書斎から聞こえてくる声までは。
「……つまり、あのガソリンスタンドでエヴリンに手を出させたのは、ボスの指示だったんですか」
「そうだ。でなきゃ、ソフィアが憧れの男と結婚できるか」
「ボス、でも……もしエヴリンが、ボスがソフィアを救うために彼女と結婚したって知ったら……恨まれますよ」
「知るわけがない。ソフィアは希少な血液病を患っている。継続的な輸血が必要になる。ケイン家のコネを総動員して調べたが、シカゴで完全に適合して拒絶反応ゼロなのはエヴリンだけだ」
「……この借りは、俺が一生かけて返す。だがソフィアが回復するまで、エヴリンには伏せる」
救いだと思っていたものは、彼が丹念に組んだ罠だった。
なら――私の手で、全部壊してやる。
書斎の扉は、少しだけ開いていた。
私はコーヒーを載せたトレイを持って廊下に立っていた。港の銃撃沙汰を片づけて帰ってきた彼に、夜食を届けるつもりだったのに。
アレクサンダーの低い声が、葉巻の匂いと一緒に流れてくる。
足が止まった。
「エヴリンもついてねえよな。普通は血液浄化一回で半月は寝込む。ボス、あの女に五回も耐えさせたんだぜ」電話口の副官、マルコの声には、珍しく同情が混じっていた。
手の中でコーヒーカップがガタガタと震える。
「ソフィアの両親は、昔、俺を逃がすために盾になって死んだ。モレッティ家に蜂の巣にされた」アレクサンダーの声は、怖いほど冷静だった。「ソフィアを生かすためなら五回だろうが五十回だろうがやる」
「でも……本気でボスを愛してる女を、そんなふうに騙して、良心が痛まないんですか」
「騙す?」鼻で笑う気配。「俺が手を出さなきゃ、エヴリンはあのボロ倉庫でとっくに死んでた。ケイン家の庇護、豪邸に車に宝石……十分だろ」
「それに、あいつは血液の凝固力が強い。毎月ちょっと抜くくらい、なんでもねえ」
つるり、と。
手からカップが滑り落ち、ペルシャ絨毯に鈍い音を立てた。
熱い液体が足首に跳ねたのに、痛みは来なかった。
痛いのは、そこじゃない。
血液の凝固力が強いから、好きに血を抜いていい?
五年ずっと、毎月の「検査の採血」。たった「ちょっと抜く」――その一言で片づけられてきた?
私はただの、動く血液バンクだった。
膝から力が抜け、壁に背を預けたままずるずると座り込む。
涙が勝手に落ちた。しょっぱくて、苦い。
アレクサンダーは言っていた。体質が特殊で毒が抜けにくい、だから定期的に採血してモニタリングしなきゃいけない、と。
私は馬鹿みたいに信じた。言われるままに五回も血漿交換まで受けた。
その血は全部、ソフィアの命を繋ぐために使われていた。
もっと恐ろしいのは――
あの夜の悪夢そのものが、彼の仕込みだったこと。
通りすがりのマフィアのボスに偶然助けられたんじゃない。最初から最後まで、彼が回した脚本。
私を壊して、救世主になる。
感謝で縋りつかせ、愛させ、進んで血を差し出す袋にする。
窓の外は真夏の夜なのに、私は震えが止まらなかった。
書斎で革張りの椅子がきしむ。アレクサンダーが出てくる。
私はよろめきながら立ち上がり、ふらふらと主寝室のバスルームへ逃げ込んだ。
蛇口を最大までひねる。ざあざあと落ちる水音で、喉の奥に押し込めた嗚咽を消す。
「エヴリン?」扉の向こうで、アレクサンダーがノックした。「急にシャワーか? コーヒーは?」
息を何度か整えてから答える。
「こぼしたの。体にかかったから……」
「そうか」声がふっと柔らかくなる。「火傷してないか? 手伝おうか」
「大丈夫。すぐ出る」
冷たい水が肌を打つ。頭を無理やり冷やせ、と自分に言い聞かせる。
腕の内側に視線を落とす。細かな針跡がびっしり並んでいる。何度も何度も、虫に刺されたみたいに。塞がったものもあれば、薄い青紫が残るものもある。
五年。数え切れない採血。
そのたび彼は私の手を握り、優しく囁いた。
「怖がらなくていい。俺がいる」
あの言葉も、視線も、愛おしそうに見えた瞬間も。
全部、演技。
扉を開けて出ると、アレクサンダーは温かいミルクを手に、ドア枠にもたれていた。
