第2章

エヴリン視点

「飲め。体、温めろ」アレクサンダーがミルクを差し出してくる。「顔色が悪い」

 私は熱い陶器のカップを受け取った。

 その気遣いが、吐き気を催す。屠殺の前に家畜に最後の餌をやる——そんな類の優しさ。

「飲みたくない」

 眉をひそめた彼が、手を伸ばして私の額に触れる。「どうした? 具合でも悪いのか?」

 深い灰青の瞳に見つめられて、言いかけた言葉を飲み込んだ。

 ……やめよう。芝居はまだ終わっていない。

 私は仰け反り、一息でミルクを飲み干す。熱さが食道を焼き、じん、と痛んだ。

「いい子だ」満足げに笑い、彼はベッドの縁に腰を下ろす。

 黒いシルクのガウンはゆるく結ばれているだけで、動くたびに襟元がさらに開いた。覗いた肩には、ぞっとするほど醜い刃傷の痕。

 五年前、彼はそれを「お前を守ってチンピラとやり合ったときの傷だ」と言った。私は泣きながらその傷痕にキスして、一生かけて返すと誓った。

 今思えば——その傷が誰のためのものだったのかさえ、知らない。

「そうだ。今回の血液浄化は大成功だった」アレクサンダーが私の手を握る。「医者も言ってた。回復がすごくいいって。あと二回やれば、完全に治る」

「そう」私は笑みを形だけ浮かべ、嘘を暴かなかった。

「エヴリン、この間ずっと辛かったな」髪をくしゃりと撫でられる。「明日、ニューヨークに行こう。お前がずっと見たがってたブロードウェイ。今度こそ約束する」

 前も、同じことを言った。

 そのとき私は、血液浄化の直後で痛みに震えながら病室のベッドにいた。彼は私の手を握り、深い眼差しで囁いた。

「よくなったら、必ずハワイに連れていってやる。海を見に行こう」

 五年。小切手みたいな約束が何枚も切られたのに、一度だって換金されなかった。

「ほんとに?」私は彼の目を見た。

「もちろん。もうチケットも取ってある」

 その瞬間、着信音が鳴った。

 彼は画面を一瞥し、顔色を変える。「悪い、エヴリン。電話だ」

 バルコニーへ出て、私に背を向ける。声をぎゅっと落として、何かをやり取りする。

 数分後、戻ってくるなり素早く服を着替え始めた。「埠頭のほうでトラブルだ。今すぐ行く」

「今から?」枕元の時計は午前一時を指している。

「急ぎなんだ」彼は身をかがめ、私の額にキスを落とす。「先に寝てろ。片づけたら戻る」

 アレクサンダーが出ていったあと、私はノートパソコンを開いた。

 受信箱には、ジェンセン教授からのメールが一通。三カ月前から、ずっとそこに沈んでいる。研究プロジェクトに参加しないかと、彼は何度も私を誘ってきた。

 私はそのたびに断った。馬鹿みたいに、アレクサンダーの傍を一歩だって離れたくなかったから。

 でも今回は違う。

 返信欄に、たった五文字を打ち込む。

「参加します」

 ついでにブラウザを開いた。トップの見出しが、刃物みたいに心臓へ突き刺さる。

「衝撃! ソフィア・ローズ、離婚後初めて謎の男性と病院に! 妊娠疑惑」

 写真の中のソフィアはサングラスをかけ、隣の男に大事そうに支えられている。男の顔にはモザイクがかかっていた。けれど、その体格、深いグレーのコート——

 アレクサンダーだ。

 埠頭なんて、何も起きていない。彼は彼女のところへ行っただけ。

 心臓を手で握り潰されるように痛くて、私は腰を折る。息が、うまく吸えない。

 妊娠? 彼女が——妊娠?

 私は仰向けに笑った。けれど涙が頬を伝って落ちた。

 三年前、私も子どもを望んだ。あれは私たちの愛の結晶だと信じていた。

 でも、そのあと……何もかも、消えた。

 涙を拭って、ソフィアのインスタグラムを開く。

 最新の投稿。ピンクのバラの花束。

「いつもそばにいてくれてありがとう、私の守護天使」

 スクロールする。

 二カ月前のキャンドルディナー——あの日、彼は「緊急会議」だと言って私との約束をすっぽかした。

 三カ月前のチャリティーガラ——ケイン家の年次パーティー。「体調が悪いんだから家で休め」と私を置いていった。

 半年前のプライベートヨット——あの週末は「組織の用事」だと告げて、待つなと言った。

 どの投稿も、含みを持たせた感謝の言葉も、私の頬を張り倒す平手打ちみたいだった。

 この五年、彼は忙しかったんじゃない。用事があったわけでもない。

 ただ、私と一緒にいたくなかっただけ。

 彼の時間は全部、ソフィアに注がれていた。

 私はページを閉じ、ワードを開く。

 白い画面に打ち込んだのは——

「離婚協議書」

 出ていくなら、終わらせ方くらい自分で決める。

 翌日の午後。予想どおり、彼のドタキャンがまた始まった。だけど今回は、馬鹿みたいに待ったりしない。

 私は離婚協議書を携えて車を走らせ、彼のオフィスへ向かった。

 ドアの前まで来たところで、室内からソフィアの声が漏れてくる。

「アレクサンダー。エヴリンが、あなたが私のためにまた約束をすっぽかしたって知ったら……」甘えと得意げさが混ざった声。「怒っちゃうかな?」

 私の手が、宙で固まる。

「ソフィア」アレクサンダーの声が硬くなる。「俺たちのことは、絶対にエヴリンに知られるな。いいな?」

「はいはい、冗談」ソフィアがくすくす笑う。「ねえ、そうだ。先生が言ってたの。今回は妊娠してなかったって。がっかりした?」

「馬鹿。妊娠なんて焦っても仕方ない」

「でも、あなた子ども欲しいんでしょ……」声がさらに甘く溶ける。「じゃあ今夜、もう一回がんばる? 今度こそ当たるかも」

「……俺を煽ってるのか?」声が低く、危険な色を帯びる。

「だったら、見せてよ……」

「今、見せてやる」

 椅子が乱暴に引かれる音がした。

「孕むまで抱いてやる」

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