第3章

エヴリン視点

 ドアの向こうから、艶っぽい喘ぎ声が漏れてきた。ドアノブを握る手が、ぶるぶると震える。

 逃げなきゃ。

 踵を返して駆け出した。

 ビルを飛び出した瞬間、胃の奥がぐらりとひっくり返る。口を押さえたまま吐き気に耐えきれず、えづいて、えづいて……酸っぱい液だけが喉を焼いた。

 どれくらい吐いたのかも分からない。入口脇のベンチに崩れ落ちた。夏の陽射しは眩しいのに、身体の芯だけが冷え切っている。

 頭の中で、さっきの声が何度も反響した。ソフィアの甘い笑い声。アレクサンダーの、低く押し殺した約束。

 ――孕むまで抱いてやる。

 鈍い刃物で、じわじわと心臓を抉られるようだった。

 彼も、子どもが欲しかったの?

 だったら、どうしてこの五年……私が口にするたび、眉をひそめて拒んだの。欲しかったのは、ソフィアとの子だけってこと?

「よう。ケイン夫人じゃないか」

 聞き覚えのある声。

 顔を上げると、ソフィアが目の前に立っていた。勝ち誇った嘲りを、隠そうともせずに。

「泣き顔ひどいわね。聞いちゃいけないものでも聞いた?」

 私は彼女を睨みつけた。言葉が、ひとつも出てこない。

「ふふ、やっぱり聞いたんだ」ソフィアはさらに嬉しそうに笑う。「まあいいわ。わざわざ私が教えてあげる手間が省けた」

 見下ろすように私を見て、言う。

「エヴリン、私に感謝したほうがいいわよ。今日たまたま気分がよかったから教えてあげるけど。そうじゃなかったら、あなた、あと何年もバカのままだったかも」

「……もうやめて」目を閉じた。声が掠れる。「あなたの勝ち。それで満足?」

「満足?」ソフィアは肩を揺らして笑った。「いいえ。まだ始まったばかりよ」

 首を傾け、指先で喉元の痕をなぞる。赤紫の、噛むような跡。

「見える? ここからここまで、ぜんぶ彼がつけたの。この五年、私が欲しいって言えば、あの人はいつでも来る。昨夜も、今朝も、さっきも……あなたが聞いた声なんて、私たちにとっては日常よ」

 一言ごとに、胸へ刃が突き立てられる。

 言い返したいのに、喉が何かで塞がったみたいに動かない。

「そうだ、もうひとつ。あなた、これ絶対知りたいでしょ?」

 ソフィアがしゃがみ込み、指で私の顎を持ち上げた。

「三年前、あなたが妊娠したとき。アレクサンダーが『身体に負担だから』って言って堕ろさせた……って思ってた?」

 瞳が、思わず見開かれる。

「私が反対したの」笑みが残酷に歪む。「言ってやったわ。『あなたは血液パックなんだから、子どもを産む資格なんてない』って。万が一産ませたら、真実を知ったときに図に乗って、採血に協力しなくなるでしょう?」

 顎から指が離れる。手をパン、と軽く叩いて言った。

「だから、あの人はその日のうちに堕胎させたのよ。覚えてる? あの夜のミルク。甘ったるかったでしょ。薬を入れたから」

 頭の中が真っ白になった。

 あの夜のミルク。

 アレクサンダーが私の手を握って、優しく言った。

「飲め。お前と子どものためだ」

 私は飲んだ。

 翌朝目が覚めたとき、シーツは血で真っ赤だった。

 体内の毒が抜け切っていないせいで流産したんだと信じて、この三年ずっと自分を責め続けてきた。私が、私の子を殺したんだって。

 違った。

 彼が。

 彼が、私たちの子どもを――。

 胸の中がごっそり抜け落ちたみたいで、痛くて、息ができない。泣きたいのに、涙はもう枯れていた。残ったのは空洞の痛みだけ。心臓から手足の先まで、じわじわと染み広がっていく。

「その顔。ほんと可哀想」ソフィアは笑いながら首を振った。「でも、そんなに落ち込まないで。あなたの子ども、私の役に立ったもの。あの日の血、すごく新鮮で、効果が最高だった」

 このクズ。

「あんた……っ」

 やっと声が戻ったのに、たった一言で喉が詰まる。

「私が何?」ソフィアが眉を上げる。「殴りたい? どうぞ。やってみなさいよ。でも、今のあなた、立つ力もないんじゃない?」

 わざと顔を寄せてくる。

 私は震える手を上げ、渾身の一撃で頬を打ち抜こうとした。

 ソフィアは私の手首を軽々と掴み、嘲るように笑う。

「その程度? そりゃアレクサンダーもあなたに興味なくすわ」

 その瞬間、彼女の目つきが変わった。ぱっと手を離し、悲鳴を上げながら横の花壇の縁へ体当たりする。

 状況が飲み込めないまま、鈍い音。額が石に当たり、血が一気に噴き出した。

「きゃあああっ! 助けて! エヴリンに殺される!」

 額を押さえたまま、地面にへたり込むソフィア。

 私は呆然と立ち尽くした。

「何があった?」

 背後から、聞き覚えのある声。

 身体が凍りついたように硬直する。振り向くと、アレクサンダーが大股で近づいてきた。マルコと数人のボディガードを連れている。

 血まみれで倒れるソフィアを見た瞬間、彼の顔色が変わった。

「ソフィア!」

 彼は駆け寄り、私を乱暴に突き飛ばした。

「てめえ、何しやがった!」

 踏ん張れず、私は地面に叩きつけられる。

 後頭部が石段にぶつかり、がん、と鈍い激痛。視界がぐにゃりと滲んだ。

 温かい液体が後頭部から流れ、襟元を濡らしていく。

「アレクサンダー……」ソフィアが弱々しく彼の手を掴む。「私、平気……エヴリンを責めないで……」

「くそっ、喋るな」

 アレクサンダーは上着を脱いで傷口を押さえ、彼女を抱き上げると車へ向かった。

「マルコ、医者を呼べ!」

 車は勢いよく走り去る。

 私は地面に横たわったまま、青く澄んだ空を見ていた。

 血がじわじわと石畳へ落ち、丸く滲んでいく。

 寒い。

 本当に、寒い。

「お嬢さん、大丈夫ですか?」通りがかった人がしゃがみ込む。「ひどい出血だ……病院に連れていきます!」

 目を覚ますと、白い蛍光灯が眩しくて、瞼が重かった。

 鼻の奥に消毒液の匂い。

「起きました?」看護師が近づく。「命拾いしましたね。軽い脳震盪です」

 口を開こうとして、喉の乾きに痛みが走る。

「医師の判断では、48時間は入院して経過観察です」看護師が水を差し出す。「ご家族に連絡しますか?」

 家族。

 笑いそうになった。私に家族なんて、残っていたっけ。

「いいえ。退院します」

「だめです、今は――」

「自分でサインします。何かあっても自己責任で」

 看護師は困った顔でため息をつき、退院手続きを取りに行った。

 血で汚れた服に着替え、私は病室を出る。

 廊下は静かだった。消毒液の匂いと、機械のカチ、カチ、という音だけ。

 VIP病室の前を通りかかったとき、足が止まる。

 扉の隙間から見えたのは、ベッド脇に座るアレクサンダー。ソフィアの手を握っている。

 額には包帯。顔色は青いのに、瞳には勝ち誇った光が宿っていた。

「アレクサンダー、ほんとに大丈夫。そんなに心配しないで」

「俺が悪かった。怪我をさせた」

 アレクサンダーは彼女の手に口づけ、それから尋ねた。

「さっき、エヴリンに何を言った? どうして手を出した」

「何も言ってない……」ソフィアは唇を噛み、目尻を赤くする。「私を見るなり取り乱して。どれだけ説明しても聞かないの。アレクサンダー……あの人、昔のことをまだ根に持ってるのかな。私がジェフリーと一緒だったこと」

 アレクサンダーの表情が沈む。

「でも、今はもうジェフリーとは離婚したし」ソフィアが上目遣いで彼を見る。「これから、どうするの? ずっとこんなふうに隠し続けるの?」

「俺が片づける」

 アレクサンダーは言葉を遮った。

「休め。ほかのことは考えるな」

 片づける。

 彼は何を片づけるつもり?

 存在してはいけない浮気相手を片づけるのか。それとも、邪魔な妻を片づけるのか。

 答えなんて、見えている。

 私は踵を返した。

 涙で視界が滲み、どうやって病院を出たのか覚えていない。

 ポケットの携帯が震えた。

 アレクサンダーからのメッセージ。

「エヴリン、どこにいる。俺の連中が見つけられない」

「今日のことは悪かった。俺が焦った」

「ソフィアは昔の友人の妹だ。身体も弱い。妹みたいに思ってる」

「変に考えるな。家で休め。こっちを片づけたら戻って、おまえのそばにいる」

 画面の文字を眺めているうちに、ふっと笑いが漏れた。

 友人の妹。ベッドに連れ込む妹、ってこと?

 アレクサンダー。嘘をつく顔、ほんとうに醜い。

 メッセージを削除し、電源を落とす。

 屋敷に戻り、服を数着だけ鞄に詰めた。

 離婚届と指輪を、ベッドサイドに置く。

 書類の裏には、一行だけ。

「あなたとソフィアが、末永く幸せでありますように」

 スーツケースの取っ手を掴み、私は振り返らずに出ていった。

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