第1章
木槌は静かに待っていた。
私は原告席に座っていた。左目には包帯が巻かれ、右手はギプスで固定されている。紺色のスーツ。控えめで、品行方正。警察官の妻たるもの、かくあるべし、という姿そのものだった。
松本裁判官は眼鏡の位置を直した。その微かな音が、山崎県裁判所の法廷に響き渡る。私の後ろには、糊のきいた制服に身を包んだ良平が座っている。胸の階級章が鈍く光っていた。
「佐藤奥さん」と裁判官が口を開いた。「佐藤良平署長との婚姻関係が、回復の見込みなく破綻していることを確認しますか?」
これだ。玲子と二人で、幾千回となく練習した瞬間。たった一言で、私は自由になれる。五年にわたる地獄を終わらせられる。
「はい」そう答えるはずだった。
だが、私の頭は折れた花のようにうなだれた。「いいえ、裁判官。私は……まだ、夫を愛しております」
法廷に沈黙が叩きつけられた。
そして背後で、玲子が息を呑む鋭い音。「佳奈、あなた、一体何してるの!?」
記憶が津波のように襲いかかってきた。存在するはずのない光景。これから起こることの、知識。
この裁判所の外にある駐車場で、玲子の体が崩れ落ちる。血が紅葉県の土に滲んでいく。彼女を見下ろす良平。その手には、硝煙を上げる拳銃が握られていた。
「弁護士が逮捕に抵抗した。自己防衛のため、やむを得なかった」
彼の声。冷静で、手慣れた口調。同僚の警官たちに、玲子が銃を奪おうと飛びかかってきたのだと説明する。身内びいきで、捜査がいかに早く打ち切られたか。頷き、口裏を合わせる警官たち。
もう二度と。玲子が死ぬのを、もう二度と見たくない。
時間が現在に戻る。法廷の光景に焦点が合った。私は木製の手すりを握りしめる。ギプスの下で、指の関節が白くなっていた。
視界の端に映る玲子の顔。混乱。裏切り。
本当は真実を叫びたかった。私が彼女の命を救おうとしているのだと。この犠牲が、彼女の息を繋ぎとめるのだと。
今度こそ、彼女を救う。たとえ、この身が滅んでも。
背後で気配がした。良平が立ち上がる。見なくても、彼が微笑んでいるのがわかった。十代の頃には私の胸をときめかせた、あの笑顔。今は捕食者のそれだ。隠しきれない満足感が滲み出ている。
糊のきいた制服に身を包み、数々の表彰が並ぶ胸を張り、手を勤務用の拳銃の近くに置いた彼は、この町が信じて疑わない英雄そのものに見えた。
「佳奈」彼の声が、静まり返った室内に完璧に響き渡った。温かく、優しい。聴衆に向けられた声だ。「君が正気に戻ってくれると信じていたよ。俺たちは一緒になる運命なんだ」
傍聴人たちが感心したようにざわめいた。高校の野球部時代から良平を知っている地元の人々だ。郵便局の平野さんが囁く。「佐藤署長は本当にいい人ねぇ、あんな風に奥さんのことを気にかけて」
良平が近づいてくる。和解した妻を慰めるように身を屈め、私にしか聞こえないほどの距離で囁いた。
「賢い選択だ、佳奈」耳元で息がかかる。肩を掴む指に力がこもる。その力の強さを思い出させるように。「俺に逆らう人間がどうなるか、君は知っているはずだ」
私は頷いた。体が無意識に、反射的に縮こまる。
殴られた犬のように。
そして、『待て』と躾けられた警察犬のように。
裁判官が再び何かを話していたが、その言葉は頭に入ってこなかった。
私の意識は、背後で荒々しく書類がかき混ぜられる音に引きつけられていた――法廷文書を片付ける、玲子の鋭く、怒りに満ちた動きだ。
「それがご自身の決断であるならば、佐藤奥さん」松本裁判官はそう結論づけた。「本件は棄却します」
木槌が打ち下ろされる音は、銃声のように聞こえた。最終的で、取り消しのできない一撃。
廊下で、玲子が私を追い詰めた。彼女がブリーフケースを閉じる音もまた、銃声のようだった。
「法科大学院での五年」彼女は、書類を不必要に強く押し込みながら、低い声で吐き捨てた。「そして、一人の女性を虐待者から救うこともできないなんて!」
私は彼女の手を掴んだ。涙が目の奥で燃えるように熱い。片方は本物で、もう片方はガーゼの奥に隠されている。「玲子、お願い、信じて。これが唯一の方法なの」
彼女は私を見つめた。説明を求めるように、茶色の瞳が私の顔を探る。もし私が違う選択をしていたら、駐車場で光を失っていたはずの瞳。
「何のための唯一の方法よ?殺されるため?」私の名前を呼ぶ彼女の声は、途中でひび割れた。プロとしての仮面が剥がれ落ちていく。「自分の顔を見なさいよ、佳奈!自分の手を見て!」
すべてを話したかった。もう一つの時間軸のことを。彼女の命と、私の自由との選択を。
だが、良平のブーツが大理石の床を鳴らす音が近づいてくる。威圧的な足音。彼は聞いている。一言一句を記録している。
「戦う価値のない戦いもあるの」私は言った。その言葉は灰のような味がした。「小さな町には、小さな町のルールがある」
玲子の顔に、様々な感情がめまぐるしく浮かんだ。不信。怒り。そして、敗北に似た何か。私に対してではない。良平のような男を守る、システム全体に対しての。
「そうね」彼女はついに言った。ブリーフケースの留め金が、パチンと音を立てて閉まった。
彼女は裁判所のドアに向き直った。立ち止まる。重いガラスに手を置く。「今夜、桜島に車で帰るわ。もし、気が変わったら……」
「彼女は変わらないさ」良平が、影のように私の隣に現れて、滑らかに言った。「そうだろう、佳奈?」
私は首を横に振った。
何か冷たくて決定的なものが、玲子と私の間を通り過ぎていった。
彼女は最後にもう一度私を見た。そしてドアを押し開けて出て行く。ガラスが閉まるまで、その足音が響き続けた。
「ほら、簡単だっただろう?」良平の手が私の背中に回り、出口へと導く。「もう弁護士もいらない、外部の干渉もいらない」
紅葉県の熱気が、開け放たれたオーブンからの熱波のように、容赦なく私たちを襲った。駐車場へ向かう一歩一歩が、まるで処刑台へ向かう歩みのように感じられた。良平のパトカーが待っている。権威を象徴する、白と黒の車体。
「ええ、そうね、良平」私はどうにか言った。言葉が割れたガラスのように喉に突き刺さる。「私の居場所は、家よ」
彼は紳士然として助手席のドアを開けた。公衆の面前では、いつもそうだ。
玲子のレンタカーが走り去っていくのが見えた。高速道路へ、桜島へ、安全な場所へ。私が生き続けることを保証した、彼女の人生へ。
今日、私は玲子の命を救った。
私は慣れたシートに身を沈めた。無意識に手が動き、ブラウスの下に隠された痣を覆う。
焼けつくように熱いビニールシートは、きっとストッキングを焼き切るだろう。それでも私は身じろぎひとつしなかった。
今度は、私自身の命を救わなければ。
良平が運転席に滑り込んだ。手慣れた様子でバックミラーを調整する。その鏡に、私の顔が映った。片方の目は爛々と輝き、もう片方は白いガーゼの奥に隠されている。
だが、その見える方の目には、新しい何かが宿っていた。良平が一度も見たことのないもの。冷たく、計算高い、別の時間軸の裁判所の駐車場で生まれた何かが。
私たちは裁判所を後にした。玲子のテールライトが、陽炎の向こうに消えていくのを見送る。
袖の下の痣の縁を指でなぞる――いずれは消える、紫色の指の跡。そして、ゲームは変わりつつあった。






