第2章
疲れ切った体を引きずってアパートに戻ると、リビングの隅に、埃を被ったカメラバッグが静かに転がっていた。
震える手でジッパーを開けると、ニコンD850が静かに収まっていた。ボディについた擦り傷が、戦場での経験を物語っている。バッテリーはとっくに空になっていた。
充電を待つ間、メモリーカードを取り出してパソコンに差し込む。
スクリーンが明るくなった瞬間、封印されていた記憶が洪水のように押し寄せてきた。
シリア国境の難民キャンプで医療援助を待つ女性たち、瓦礫の中でAK-47より背の低い少年兵、そして、あの写真——星野海斗が小さな女の子の傷を手当てしている。陽光が彼の横顔に降り注ぎ、まるで聖なる光のように優しかった。
突然、胸が締め付けられ、まるで硝煙と土埃の匂いが時空を超えてきたかのようだ。
心臓を鋭い爪で鷲掴みにされたように、息もできなくなるほど痛む。
もし真司がこれらの写真を見たら、まだ備考欄に『身の程を弁えている』などと書くだろうか。
スマートフォンが震えた。
真司からのメッセージだ。
『里奈、今夜一緒に食事しないか。奈美が取締役会を終えたばかりで、お祝いに皆をミシュランレストランに招待したいって』
山本奈美にいつミシュランに行くような金ができたのだろう。
七時半、私は銀座のフレンチレストランに到着した。入口のウェイターは燕尾服を身にまとい、メニューに載っている最も安いメインディッシュでさえ八千円はする。
真司と友人たちはすでに窓際の席に陣取り、目の前にはシャンパンが並んでいた。山本奈美が立て板に水で話し続けている。
「明日は海外プロジェクトのビデオ会議があるし、来週はまたシンガポールに提携の話で飛ばなきゃ……」
彼女はわざとiPhoneを目立つ位置に置き、スクリーンにはびっしりと詰まったスケジュールが映っていた。
「奈美は本当にキャリアウーマンだな!」
誰かが感嘆の声を上げる。
「仕方ないわ、仕事人間の女はこういうものよ」
山本奈美は優雅に髪をかき上げ、私に気づいた。
「あら、佐藤さん来たのね。でも……あなたの席、ないみたいだけど?」
六人掛けの円卓はすでに満席だった。
「あらやだ、七人分の席を予約するの忘れちゃった」
彼女ははっとしたふりをして、ウェイターに手を振る。
「すみません、椅子を一つ追加してもらえます? そうね……そこの隅っこでいいわ」
彼女が指差したのは、化粧室に近い場所だった。
「でも佐藤さんって、こういう場所はあまり慣れてないかしら? だってここ、一食三万円もするのよ。あなたが普段行くようなファミレスよりずっと高いもの」
皆が善意で笑ったが、その笑い声が私の頬を熱くさせた。
私は黙って隅の追加席に座った。
「奈美、国際貿易会社の役員って、年収もかなりいいんだろう?」
誰かが尋ねる。
山本奈美は謙遜するように手を振った。
「まあまあね、税引き後で二千万円ってところかしら。最近は死ぬほど忙しくて、ヨーロッパのクライアントが特に厄介なの。何かあるとすぐ現地に飛んでこいって言うし」
彼女はわざとブラックカードを取り出してテーブルに置いた。
「先月なんて、ビジネスクラスの航空券だけで五十万も使っちゃったわ」
一同から驚嘆の声が上がる。
「奈美はすごいな! 俺たちみたいなサラリーマンには想像もつかないよ」
彼女は得意げに私を見た。
「そういえば佐藤さん、あなたは今もNHKで……アシスタントだっけ?」
「アシスタントディレクターです」
と私は訂正した。
「ああ、そうそう、アシスタント。お給料で生活できるの?」
テーブルの全員が、同情の混じった視線で私を見た。
「ええ……まあまあ、です」
「そうよね、佐藤さんみたいな安定志向の女の子は、安定した仕事があればそれで十分よね。私たちみたいにビジネスの世界で戦わなくてもいいんだから」
彼女は軽く言い放つ。
「このレストランのワインリストは全部フランス語だから。ウェイターさん、佐藤さんには日本語のメニューをお願い。安いのを選べばいいから」
私は拳を握りしめた。
その時、彼女の携帯が鳴った。
「ごめんなさい、ニューヨークオフィスからの電話だわ」
彼女は窓際へ歩いていき、わざと全員に聞こえるように大げさな身振りで電話を始めた。
「Hello, this is Nami…… Yes, the contract…… Tokyo time…… International business……」
英語の発音は拙かったが、その場にいた人々は皆、崇拝の眼差しを向けている。
真司が山本奈美を見る目には、感嘆の色が満ちていた。
「里奈」
真司が私の方を向き、その声には比較する響きがあった。
「奈美を見てみろよ。なんて優秀なんだ。現代の女性は自立しなきゃいけない。彼女はそのいい手本だよ」
私の心はナイフで刺されたようだった。
山本奈美が席に戻ると、皆が憧れの眼差しを向けた。
「奈美、英語ペラペラだね!」
「国際的な会社の役員は違うなあ!」
彼女は私を見た。
「佐藤さんは英語、わかるの? 国際ニュースなら使うでしょう? でも、あなたは国内担当だから、必要ないか」
私は小声で言った。
「少しだけわかります」
「それはよかった! さっきの電話、聞こえたでしょ? 明日のboard meetingについて話してたの」
私は頷いた。
「ええ、聞こえました。ただ、一つ小さな疑問が」
「どんな疑問?」
彼女の笑顔が一瞬、こわばった。
「今は夜の八時ですが、ニューヨークは朝の七時のはずです。普通、会社はそんなに早く会議を始めません。緊急事態でもない限り」
彼女は瞬きした。
「あ……ええ、そうよ、緊急事態だったの」
「それに、あなたが言った『Tokyo time』ですが、英語では普通『Japan Standard Time』か『JST』と言います。『Tokyo time』は和製英語みたいに聞こえますね」
雰囲気が微妙に変化する。
真司が眉をひそめた。
「里奈、どういう意味だ?」
「ただの記者の職業病です。細かいことが気になるだけで」
私はワイングラスを持ち上げた。
「奈美さん、どちらの会社にお勤めなんです?」
私は静かに尋ねた。
「ある……多国籍の貿易会社よ」
彼女は言葉を濁し始めた。
「会社名は? 国際ニュースの仕事で財界の方を取材することが多いので、もしかしたら存じ上げているかもしれません」
彼女の指先が震えた。
「小さい会社だから、あなたは知らないと思うわ」
「では、主に担当されている市場は? ヨーロッパ、アメリカ、それともアジア太平洋地域ですか?」
「ど……どれも関わってるわ」
私は彼女がテーブルに置いたブラックカードを指差した。
「そのカード、珍しいですね。どちらの銀行のですか?」
彼女はカードをしまおうとしたが、私はすでに文字を読み取っていた。
「それは楽天銀行のブラックカードですね。年会費が無料のものです。カードのデザインが黒いだけで、本物の『ブラックカード』ではありません。本物のブラックカードはアメリカン・エキスプレスのセンチュリオンカードで、年会費は三十五万円です」
テーブルは静寂に包まれた。
「それに、楽天銀行のこのカードは主にネット通販の利用者に向けたもので、審査のハードルはかなり低い。本当の高所得者層は、普通、三菱UFJか三井住友のプラチナカードを使います」
山本奈美の顔が真っ青になった。
「最後の質問です。税引き後年収二千万円とおっしゃいましたが、日本の税率で計算すると、税引き前では三千五百万円ほどになります。この所得水準は上位0.1%に入りますね。ですがあなたは、三万円のディナーの支払いでこれ見よがしに振る舞っている」
私は軽く笑った。
「その収入レベルの方にとって、三万円は私たちの三百円のようなものでしょう。あなたの反応は、少し気にしすぎだとは思いませんか?」
山本奈美が勢いよく立ち上がり、椅子が耳障りな音を立てて擦れた。
「なっ……何よ、あなたに何がわかるっていうの! たかがアシスタントのくせに!」
「多くは知りません。でも、何が真実で何が嘘かを見分ける方法は知っています」
私はワイングラスを掲げた。
「それに、本当に成功している女性は、わざわざ収入を強調したりしませんし、ましてや他人を貶めて優越感に浸ったりもしません」
山本奈美の目に涙が浮かんだ。
「真司、見てよ彼女を! この女、性格が悪すぎるわ!」
真司は眉をひそめて私を見つめ、その目には不満が満ちていた。
「里奈、やりすぎじゃないか?」
私は静かに彼を見つめ返した。
「事実を述べただけです。それがやりすぎだと感じられるなら、問題は私にはないのかもしれません」
山本奈美は真司が完全に自分の味方をしてくれないと見るや、さらに崩壊した。
「もう耐えられない! この女、精神が歪んでる!」
彼女は顔を覆ってレストランを飛び出していった。
真司は私をきつく睨みつけ、後を追って立ち上がった。
他の人々も次々と席を立ち、ひそひそと囁き合っている。
「意地悪すぎる……」
「嫉妬心、強すぎでしょ……」
あっという間に、個室には私一人だけが残された。
ウェイターがおずおずと尋ねてくる。
「お客様、こちらのテーブルのお会計は……」
私はテーブルに残された山本奈美の「ブラックカード」を見て、微笑んだ。
「彼女、カードを忘れていったみたいですね。合計でおいくらですか?」
「十八万四千円でございます」
私は自分のブラックカードを取り出した。
「これでお願いします」
支払いを済ませてレストランを出ると、夜風の中で深く息を吸い込んだ。
真実はいつも残酷だ。でも、真実を口にする感覚は、嘘を我慢して耐える屈辱よりずっと痛快だった。
今、ようやくわかった。この三年間、私が演じてきた役は、さっきの山本奈美の芝居と何ら変わりはなかったのだと。
私たちは二人とも、ただ違う脚本で演じていただけ。
さて、そろそろ脚本を替える時だ。
