第3章
私が山本奈美の嘘を見抜けたのは、母である佐藤雅子の影響だった。
母は生前、佐藤物産グループの会長であると同時に、日本最大級の国際人道支援団体である佐藤財団の創設者でもあった。
私の幼少期は、母に連れられて世界中の助けを必要とする場所を飛び回る日々だった。
七歳の時にはインドのスラムへ、九歳の時にはアフリカの難民キャンプで薬を配り、十一歳の時にはシリアで学校を建設した。母はいつも、そのニコンF5で全てを記録していた。
「里奈、この世界は苦難に満ちているけど、希望にも満ちているのよ」
母はカメラを構え、瓦礫の中で微笑む子供たちにレンズを向けた。
「あなた自身の目で見て、記録して、そしてそれを変える方法を考えるの」
2015年、母はスイスでの慈善サミットに参加中、交通事故で亡くなった。相続法に基づき、父が会社の支配権と財団の管理権を含む全財産を相続した。その半年後、父は財団の予算を大幅に削減し、母が準備していた『シリア国境救援計画』も棚上げにされた。
一年後、父は再婚し、新しい『佐藤夫人』は母に関わるもの全てを鼻で笑った。
私は母の形見を必死で守ったが、その代償として豪邸を追い出され、ごく普通のアパートで一人暮らしをすることになった。
だから、山本奈美が穴だらけの『冒険譚』を自慢げに語った時、私には一目で見抜くことができたのだ。
翌朝、二日酔いの頭痛が鈍いナイフのように私のこめかみを抉っていた。
なんとか身を起こすと、自分が家のソファに寝かされていることに気づいた。体には星野真司のジャケットが掛けられている。
彼は向かいの一人掛けソファに座り、険しい顔で私を見ていた。
「里奈、昨夜はやりすぎだ」
彼の声はメスのように冷たかった。
「奈美は僕の友達なんだ。あんな風に彼女の恥をかかせるべきじゃなかった」
私はこめかみを揉みながら立ち上がった。
「先に嘘をついたのは彼女よ」
「嘘だったとして、それがどうしたって言うんだ? 誰にだって虚栄心くらいあるだろう。どうしてわざわざ暴く必要がある?」
真司は眉をひそめた。
「君がそんなことをすると、僕の立場がなくなる」
昨夜、山本奈美を慰めるために追いかけていった彼の後ろ姿を思い出し、胸に吐き気がこみ上げた。
鎮痛剤を取ろうと書斎へ向かった時、ふと机の上のカメラがなくなっていることに気づいた。
「私のカメラは?」
私は勢いよく振り返り、声がオクターブ上がった。
真司は私の視線を避けた。
「奈美にあげた」
「なんですって⁉」
心臓を大槌で殴られたような衝撃が走った。
「今、なんて言ったの?」
「昨夜、君が彼女にもっと写真を撮れって言ったじゃないか」
真司はさも当然といった様子で言った。
「奈美がプロ用のカメラを試してみたいって言うから、君のを貸してあげたんだ。どうせ君もあまり使ってないだろう」
血が一気に脳天に昇った。世界がぐらぐらと揺れ、耳鳴りがする。
「よくも……!」
私の声は震えていた。
「よくも私のカメラに触れたわね⁉」
机の上の水差しを床に叩きつけると、ガラスの破片が飛び散った。真司はそれに驚き、怯えた目で私を見た。
私は彼に駆け寄り、襟首を掴んだ。爪が彼の肌に食い込む。
「山本奈美はどこにいるの?」
「く……雲安グランドホテルの1103号室……」
彼を突き放し、私は振り返って玄関へと走った。
「里奈! 待ってくれ!」
背後で真司が叫ぶ。
「僕も一緒に行く!」
私は無視して階段を駆け下り、タクシーを捕まえて雲安グランドホテルへと向かった。
十五分後、私は1103号室のドアの前に立ち、力強くドアを叩いた。
「奈美! 開けなさい!」
ドアはすぐに開いた。バスローブ姿の山本奈美が現れる。髪は乱れ、顔には昨夜の化粧が残っていた。私を見ると、彼女の口元に得意げな笑みが浮かんだ。
「あら、佐藤さん。こんなに早く、何か御用かしら?」
私は彼女を押し退けるように部屋に入り、一目でテレビボードの上に置かれたカメラを見つけた。早足でそこへ向かい、慎重に手に取って確認する。
「何するのよ!」
山本奈美が私の後を追ってきた。
「それは真司さんが私にくれたものよ!」
私は彼女に向き直り、必死で声を抑えた。
「これは私のものよ」
「でも真司さんは私に貸してくれるって言ったわ」
山本奈美は挑発的に笑う。
「何? 惜しいの? たかが古いカメラじゃない」
「古いカメラじゃない」
私はカメラを固く抱きしめた。
「これは、母の形見なの」
山本奈美の表情が一層意地悪くなった。
「だから何? あなたのお母さん、もう死んでるんでしょ? そんなもの、持っててどうするの?」
私の理性の糸が、ぷつりと切れた。平手で彼女の顔を思い切り張り飛ばした。
「黙りなさい!」
山本奈美は頬を押さえ、目に狂気の炎を燃やした。
「よくも私を叩いたわね⁉」
彼女はカメラを奪おうと飛びかかってきて、私たちはもみ合いになった。引き裂き合う中で、突然カメラのストラップが切れた。
パリン!
カメラは床に強く叩きつけられ、レンズキャップが弾け飛んだ。ボディが心を引き裂くような衝突音を立てる。
「いやぁぁぁっ!」
私は悲鳴を上げ、すぐに床に膝をついて損傷を確認した。
私の苦しむ様を見て、山本奈美の顔に病的な快感が浮かんだ。
彼女は歩み寄り、その足でカメラを強く踏みつけた。
「私が手に入れられないものなら、あんたも手に入れられると思わないで!」
レンズは完全に砕け、ボディは変形していた。二十年以上も前に母が使っていたカメラが、こうして私の目の前で壊された。
マグマのような怒りが体内で爆発した。私は勢いよく立ち上がり、山本奈美の髪を掴んで壁に叩きつけた。
「ああ——っ!」
彼女は悲鳴を上げ、額が壁の角にぶつかり、瞬時に血が流れた。
「このクズが!」
私は理性を失い、彼女を揺さぶった。
「よくも壊してくれたわね! 私の、一番大事なものを!」
突然、部屋のドアが蹴破られ、星野真司が飛び込んできた。
「里奈! 気でも狂ったのか⁉」
彼は駆け寄って私を引き離し、血を流す山本奈美を抱きしめた。奈美はぼろぼろと涙を流し、彼の腕に寄りかかった。
「真司さん、彼女が私を殺そうと! 殺そうとしてるの!」
私は床に膝をつき、震える手でカメラの破片を拾い集めようとした。鋭い金属片が指を切り、鮮血が砕けたレンズの上に滴り落ちる。
「たかが古いカメラじゃないか」
真司が苛立たしげに言った。
「新しいのを買えばいいだろう? そこまですることないじゃないか」
私はゆっくりと顔を上げ、かつて生涯を共にすると信じていたこの男を見つめた。
「新しいのを買う?」
私の声は、紙やすりで擦ったように嗄れていた。
「これが私にとって何を意味するのか、あなたにわかるの?」
「ただのカメラだろう?」
真司は眉をひそめた。
「君のその反応は過剰すぎる。まったく理性的じゃない」
私は立ち上がり、彼の顔を思い切り平手で打った。
乾いた音が部屋に響き渡り、真司は呆然と頬を押さえた。
私は左手の婚約指輪を外し、ゴミ箱へと力いっぱい投げ捨てた。
ダイヤモンドの指輪は甲高い衝突音を立て、ゴミの中に消えた。
「星野真司」
私は一言一言、区切るように言った。
「消えて」
その日の午後、私は荷物を全てまとめ、車で郊外の実家に戻った。
それは古い平屋で、父が再婚してからはめったに帰ってこない家だった。私は星野真司からの贈り物を全て庭に積み上げて燃やした。炎が、私の蒼白な顔を照らし出す。
翌日、私は母の墓地へ向かった。
東京郊外の青山霊園。母の墓石は、桜の木の下に静かに佇んでいた。
黒い大理石にはこう刻まれている。
『佐藤美和子 1960-1999 彼女はレンズで世界の真実を記録した』
私は墓前に跪き、カメラの残骸をそっと墓石の傍に置いた。
「お母さん、ごめんなさい」
私は声を詰まらせた。
「あなたのカメラを守れなかった。あなたが望んだような記者にもなれなかった。あなたの期待を、裏切ってしまった」
山風が吹き抜け、桜の花びらが私の肩に舞い落ちた。
それからの三日間、私は携帯電話の電源を切り、星野真司の連絡先を全てブロックした。
彼は何度も電話をかけ、メッセージを送り、実家のドアまで叩きに来たが、私は一切応じなかった。
三日目の早朝、再び母の墓前を訪れると、意外にも墓石の傍らに桜の鉢植えが一つ増えていた。
ピンク色の花が満開で、朝の光の中でうっとりするほど美しい。母は生前、桜が一番好きだった。咲いている時間は短くても、その一瞬一瞬を純粋に、美しく生きているから、といつも言っていた。
私は戸惑いながらその花を見た。誰がここに花を届けたのだろう?
霊園の管理事務所に尋ねてみた。
「ああ、佐藤美和子様のお墓ですね」
管理人は登録簿を確認した。
「星野海斗様という方が、三年ほど前から定期的にお花を届けてくださっていますよ。毎月、新しい桜の鉢植えを」
私の心臓が、どくんと大きく脈打った。
「星野海斗?」
「はい。とても礼儀正しい若いお医者様です。佐藤さんは大変尊敬している方なので、この形で敬意を表したいと仰っていました」
私は母の墓石を見上げた。まるで、彼女の声が聞こえた気がした。
『里奈、行きなさい。あなたが本当に見つけるべき人を見つけに』
