第2章

 私はその場で凍りついた。振り返るのが怖かった。

 その声には聞き覚えがありすぎた。かつて数え切れないほどの過酷な訓練の日々において、それは私の悪夢であり、唯一の導きでもあった声。

 ドレスの裾を引きずりながら振り返ると、そこにはやはり、かつてのコーチ、矢原賢一がいた。

 喧騒の只中に立ちながら、彼だけが異質なほど冷ややかで高貴な空気を纏っている。

 私は無理やり口角を上げた。

「矢原監督? どうしてここに」

 矢原賢一は長い脚で数歩近づいてきた。

「ずっとお前を見ていた」

 私は自嘲気味にうつむいた。

「笑い話を見せてしまいましたね」

「腹が立っているんだ、宇原雫。お前は才能を浪費しているだけでなく、犯罪を犯しているに等しい」

 矢原賢一の声には、隠そうともしない嘲笑が含まれていた。

「金メダルを取った時、お前はまだ二十四歳だった。アスリートとして最も黄金期にある全盛の年齢だ。それをお前は、『練習ばかりで構ってくれない』という男の言葉一つで引退を選んだ」

 心臓を見えない手で鷲掴みにされたようで、私は思わず弁解した。

「彼は……家に誰かが待っていてほしいと言ったんです」

「その結果がこれか?」

 矢原賢一は冷笑し、畳み掛けるように言った。

「連覇を諦め、世界ランク一位の座を捨て、さらに今日、女としての尊厳まで捨てて、お前は彼からどんな選択を得られた?」

 空気が凝固したようだった。

 口を開こうとしたが、喉に綿が詰まったようで声が出ない。

「もう俺と来てもいいだろう?」

 私は呆然とした。

「どこへ?」

「話をする場所だ」

 彼は先に歩き出した。

「お前の未来について。現役復帰の話だ」

 復帰という文字が、電流のように背筋を駆け抜けた。

 私は迷わずドレスの裾を持ち上げ、彼の大股な背中を追いかけた。

 彼の車に乗り込むと、彼はようやく私がウェディングドレス姿であることに気づいたようだった。

 後部座席の大半を占領するふわふわとしたスカートを一瞥し、眉をひそめる。

「先に着替えろ。見ていて目障りだ」

「はい」

 私は頷いた。

 車は滑らかに車列へと合流した。

 ちょうど帰宅ラッシュの時間帯で、車は古崎言舟のマンションからほど近い交差点で信号待ちをした。

 私は無意識に窓の外を見た。

 一台の引越しトラックが停まっており、その傍らにある見慣れた二つの人影が、私の目を刺した。

 古崎言舟が道端で作業員と話しており、林原夢子は怯えた小鹿のように彼の腕にしがみつき、顔を彼の首筋に埋めている。

 古崎言舟は彼女を突き放すどころか、手を上げ、優しく彼女の背中を叩いてあやしていた。

「ハッ」

 隣から冷ややかな嘲笑が聞こえた。

 矢原賢一も私の視線を追っており、口元に極めて皮肉な笑みを浮かべている。

「宇原雫、お前はあんな男のために、連覇を捨てたのか?」

 答える間もなく、矢原賢一は突然ウィンドウのボタンを押した。

 窓がゆっくりと下がり、街の喧騒が流れ込んでくる。

 矢原賢一は運転手に命じ、あちらの二人に向けてクラクションを鳴らさせた。

 二人が一斉に振り返る。

 古崎言舟の視線が車列を抜け、真っ直ぐに車内へと飛び込んできた。

 彼はまず矢原賢一の不敵な笑みを目にし、次いで視線がその隣——ウェディングドレスを着て無表情に座る私に釘付けになった。

「宇原雫?!」

 古崎言舟の顔色が白む。彼は林原夢子を離し、こちらへ歩み寄ろうとした。

 信号が青に変わる。

 矢原賢一は彼に向けて冷笑を投げかけ、冷たく運転手に命じた。

「出せ」

 古崎言舟の姿は急速に後方へと置き去りにされ、サイドミラーの中で惨めな黒い点へと変わっていった。

 矢原賢一が淡々と尋ねた。

「何か言いたいことは?」

 私は視線を戻し、遠ざかる街並みを見つめた。心の中の廃墟は、奇妙なほど静まり返っていた。

「何もありません」

 そう答え、少し考えてから付け加えた。

「やっぱり早く服を買いに行きましょう。ドレスが締め付けて苦しいです」

 ショッピングモールの高級スポーツブランド店で、店員は私を見て驚いたようだった。

 奇異の目など気にせず、私は真っ黒なスポーツウェアを選び、試着室に入った。

 複雑なファスナーを下ろし、重たいパニエが滑り落ちる。

 引退してからのこの一年半、古崎言舟のために数え切れないほどのドレスを着て、数え切れないほどのマナーを学んだ。

 忘れかけていた。スポーツウェアがこれほど軽く、自由なものだったなんて。

 全身に力が満ちてくる。

 これこそが、宇原雫のあるべき姿だ。

 試着室を出ると、矢原賢一は休憩エリアのソファに座っていた。黒一色で身を包んだ私を見て、彼は片眉を上げた。

「ようやくアスリートらしくなったな」

「だが、その物体はどうする?」

 彼は顎で私のウェディングドレスを指した。

 店員が困惑した様子でドレスを抱えている。

 私はそれを掴むと、店の入り口にあるゴミ箱の上に放り投げた。

「過去のゴミは、ゴミ箱にいるべきですから」

 手を払い、矢原賢一に向き直る。私の目は澄み切っていた。

「行きましょう、矢原監督。本題を話しに」

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