第2章
景野からの電話が鳴ったのは、夜の七時だった。
私はイブニングドレスに着替えている最中。チャリティー晩餐会は八時開演、帝国ホテルの送迎車はすでに階下で待機している。
「雪穗。明日香のほうで急遽、ファッションウィークのイベントが入ってな。秘書が言うには会社のためになるそうなんだが——」
私は何も答えず、鏡の中の自分を見つめた。黒のロングドレスに真珠の耳飾り。その化粧は、まるで標本のように完璧に施されていた。
「君ならわかってくれるだろ」彼は一呼吸置いた。「また今度、埋め合わせするよ」
通話が切れる。私はスマートフォンの画面を見つめた。そこに表示された通話時間は、四十三秒。
運転手にキャンセルの旨を伝え、ドレスを脱ぎ捨ててルームウェアに着替える。主催者に謝罪のメッセージを送った。窓の外、東京タワーの灯りは相変わらずで、目を背けたくなるほどに刺々しく輝いている。
景野が帰宅したのは、もう午前一時のことだった。
彼は私の目の前まで歩み寄ると、持っているすべてのキャッシュカードを取り出し、暗証番号を書いたメモと共に差し出した。
「全部やるよ」彼は言った。「明日香が重要な人脈を紹介したいと言うし、秘書も会社のためだと言うから行っただけだ。変な勘繰りはしないでくれ」
私はそのカードの束を受け取る。指先に、彼の手の温もりが触れた。
「別に何も考えてないわ」
それは本心だった。こういうことで思い悩む時期は、とうの昔に過ぎ去っている。
彼は安堵の息を漏らし、浴室へと向かった。シャワーの音が響き始める。私はベッドの縁に腰掛け、受け取ったカードを一枚ずつナイトテーブルの上に並べていった。八枚のカード。整然と並ぶそれは、まるで何かの儀式のようだ。
三年前、彼が浮気をし始めた頃はまだ罪悪感を抱いていて、朝が来るまで私を抱きしめながら言い訳を重ねたものだった。
それが今では、四十三秒の電話と八枚のカードで解決できてしまう。
三日後、呼び鈴が鳴った。
宅配便かと思ってドアを開けると、そこには中村明日香が土下座をしていた。
激しい雨の中、彼女はずぶ濡れだった。化粧は崩れ、地面に膝をついて私を見上げている。
「鈴木夫人……私と景野さんは本当に潔白なんです。どうか信じてください——」
彼女は激しく泣きじゃくり、涙が雨水と混じり合っている。
私はドアの内側に立ち、ただ彼女を見下ろしていた。階下では警備員が、不法侵入者がいるから警察を呼ぶかと叫んでいる。
「必要ないわ」私はインターホンの通話ボタンを押した。「跪かせておきなさい」
景野の車が到着したのは、十分後のことだった。
彼は駆け上がってくると、ジャケットを脱いで明日香に羽織らせ、彼女を助け起こした。その動作は手慣れていて、何度も繰り返してきたことなのだと分かった。
「正気か?」彼は私を振り返った。「彼女、こんなに濡れて——」
私は何も言わなかった。ただ彼が明日香を支える手を見つめる。その指は、彼女を傷つけまいとするように、優しく肩に添えられていた。
「病院へ連れて行く」そう言い捨てて、彼は去っていった。
エレベーターのドアが閉まる直前、彼が俯いて明日香に語りかけるのが見えた。その瞳には、私が久しく目にしていなかった色が宿っていた。
あれは、「慈しみ」と呼ぶものだ。
十月の終わり。会長と交わした三年の約束の期限まで、あと数日を残すのみとなった。私は景野に話を切り出そうとした。
だが言葉を発する前に、彼の携帯電話が鳴り響く。
「マンションの下にストーカーがいるみたいなの、怖くて……」受話器から漏れる明日香の声は、涙混じりだった。
景野は弾かれたように立ち上がった。「待ってろ、すぐに行く」
「景野——」
彼はもう、部屋を出ていた。ドアの閉まる音は静かで、まるで誰かを驚かせないように配慮しているかのようだった。
私はソファに腰を下ろしたまま、手にはあの三年前の合意書を握りしめていた。紙は少し黄ばんでいるが、文字は鮮明だ。
「第三条 鈴木景野が今後三年以内に不貞行為を行った場合、雪穗は離婚調停を申し立てることができ、鈴木家はこれに異議を申し立ててはならない」
私は合意書をしまうと、会長に一通のメッセージを送った。
鈴木家の本邸は目黒区にある。独棟の日本家屋で、庭の楓は炎のように赤く染まっていた。
鈴木綾子は客間に座っていた。茶卓には茶道具が置かれている。彼女は私を見ず、ゆっくりとお茶を淹れていた。
「雪穗、来たのね」彼女の口調は淡々としている。「会長は書斎でお待ちよ」
私は一礼した。「お邪魔いたします」
彼女はようやく目を上げ、私の顔に三秒ほど視線を留めてから、また戻した。
「上がってちょうだい」
廊下は長く、床は磨き上げられて光っていた。景野が子供の頃に使っていた部屋の前を通る。ドアは少し開いていて、高校時代の机がそのまま残されている。
あの頃、私はその机の横で宿題をし、彼はそれを隣で見ていた。部屋の至る所に、私が残した痕跡があった。
会長の書斎は三階にある。
「三年の期間が満了しました」私は入口に立った。「鈴木家を離れたいと思います」
会長は筆を置き、顔を上げた。「掛けなさい」
私は動かなかった。
彼は笑った。「まだ覚えているかね。景野が裏で明日香の留学を支援していたことに、君が気づいた時のことを」
覚えている。あの日、会社へ景野を訪ねて行った私は、偶然にも彼が署名した送金伝票を目にしてしまった。五百万円。受取人は中村明日香。備考欄には「学費」と記されていた。
私は彼の執務室の入り口に立ち、その伝票のコピーを手に問いただした。
「これは何ですか」
彼は一瞥しただけで、平然としていた。「彼女がフランスでデザインを学びたいと言うから、手助けをするんだ」
「手助け、ですか」私は繰り返した。
「ああ、手助けだ」景野は言った。「君が不愉快なら、やめてもいい」
私は伝票を机の上に置いた。「結構です」
その日、帰宅した私は会長に電話をかけた。
「三年のお約束について、お話しさせていただきたいのです」
会長はお茶を淹れ、私の前に差し出した。「三年の猶予を与えれば、もう慣れたものだと思っていたがな。なぜまだ去ろうとする?」
「慣れることと、受け入れることは違います」
彼は頷いた。「綾子も、昔そう言っていたよ」
私は彼を見つめた。
「妻も君と同じで、ここを出ようと考えたことがあった」会長は茶碗を手に取った。「だが結局は留まった。なぜだか分かるか?」
私は黙っていた。
「『鈴木夫人』という地位は、何よりも強固だからだ」
「この数年、君の働きは見事だった。帝国グループの案件はすべて君が取り仕切り、取締役会の評価も高い。鈴木家を出ることが損か得か、君なら計算できるはずだ」
私は彼の茶碗にお茶を注ぎ足し、静かに口を開いた。「もし損得勘定だけでしたら、私は今、ここには座っておりません」
会長は沈黙した。
感情の話を抜きにするなら、私はただの「山田家の雪穗」でいたはずだ。私は「鈴木夫人」になるために景野と結婚したのではない。鈴木景野に嫁いだ結果、「鈴木夫人」になったのだ。
あの年、私は二十二歳で、フランスから帰国したばかりの私に景野がプロポーズをした。
周囲は誰もが似合いの二人だと言った。
けれど、それが困難な道であることは分かっていた。最初に反対したのは鈴木会長だった。
当時、山田家と鈴木家の関係は水と油のように対立していた。その上、私は幼い頃から山田家の次期当主として育てられてきた。会長は恐れたのだ。景野が判断を誤り、すべての家業を私に委ねてしまい、鈴木家が実質的に山田家のものになってしまうことを。
私の父もまた、私が鈴木家で不当な扱いを受けることを案じ、反対した。
「なら、駆け落ちしよう」と景野は言った。「アメリカでも、フランスでも、どこへだっていい」
「それで?」
「それで——」彼は言葉を詰まらせた。「俺が養うよ」
私は笑った。「何をして養ってくれるの?」
彼は何も言わず、ただ私の手を強く握りしめた。
その後、彼は東京と大阪を飛行機で何度も往復し、丸一年かけて私の父に頭を下げ続けた。
だから、私は会長に直談判しに行った。
書斎に三時間こもり、私は彼に告げた。山田家の継承権を放棄すると。
「一度鈴木家を出れば、二度と戻ることは許さんぞ」会長は言った。
「承知しております」
「本気か?」
「鈴木家を出るこの日を、私は三年間待ち続けました」
会長は私を見つめた。その眼差しは複雑だった。
「身辺整理をしておけ。追って連絡する」
私は一礼し、背を向けて部屋を出た。
鈴木綾子はまだ客間に座っていた。お茶はすっかり冷めきっている。
私は彼女に歩み寄った。「今後はご挨拶に伺うことも叶いませんが、どうかお健やかにお過ごしください」
彼女は顔を上げず、ただ茶碗を見つめていた。
客間は薄暗く、半ば閉ざされたカーテンの隙間から差し込む光が、彼女の顔に落ちている。それはまるで、何かを分断する線のようだった。
私がドアに向かって歩き出したとき、彼女が何かを呟くのが聞こえた。
声はあまりに小さく、聞き取ることはできなかった。
振り返ると、彼女は薄暗がりの中に座り、私に視線を注いでいた。恍惚としたその瞳は、私を通して別の誰かを見ているかのようだった。
家政婦の中島さんが台所から出てきた。「奥様、夜も更けてまいりました。もうお休みになっては」
鈴木綾子は視線を戻した。「そうですね」
私は扉を閉めた。
庭には楓の葉が一面に散り敷かれ、それはまるで血のように赤かった。
