第4話
この夜をなんとか耐え抜けると思っていた 。私の腕に絡みつく美智子の指先は氷のように冷たい 。彼女の香水——チュベローズとホワイトムスクの香りが、めまいがするほど強く漂い、まともに息をすることさえできない 。
私は自分に言い聞かせた。「あと少しの辛抱だ。すべてが“しきたり”通りに終われば、一族も、組長も、帳簿も満足する。栞なら理解してくれるはずだ。彼女はいつも聞き分けが良く、必要な時には黙って痛みを飲み込む術を知っている」と 。
しかし、彼女が去っていく姿を見た瞬間、すべてが崩れ落ちた 。彼女は一度も振り返らなかった 。息子の手を強く引き、その足取りには迷いなど微塵もなかった 。まるで、どこへ向かうべきか最初から決めていたかのように 。その時、私の胸は鋭い痛みで締め付けられた 。
それは罪悪感ではない 。罪悪感なら慣れっこだ 。それは心の中に埋もれた不発弾のように、時折熱を持つだけで、私を破滅させることはない 。今湧き上がっているのは、もっと尖ったもの——「不安」だ 。私は本能的に一歩前へ踏み出した 。もう少し早く動けば、彼女に追いつき、その手首を掴んで言えたはずだ。「今日だけはやめてくれ、皆の前で俺を完全な道化にしないでくれ」と 。
だが、席を立とうとした瞬間、美智子の鋭い声が空気を切り裂いた 。「浩介!」 その声に優しさなどなく、あるのは独占欲と警告だけだった 。私は足を止めた 。
掌に汗が滲み、心臓が異常なほど激しく脈打つのを感じる 。興奮と恐怖が入り混じっていた 。美智子はさらに深く私の腕にしがみつき、全身を押し付けてきた 。香水に溺れそうになる中、彼女が低く囁いた 。「約束したでしょ。今夜、あなたは私のものだって」
「離せ」 自分の声とは思えないほど、かすれた声が出た 。
彼女の指が、私をその場に釘付けにするかのように強く食い込んだ 。ふと、門の外の暗闇へと消えていく栞の背中が見えた 。その瞬間、頭の中で何かが「プツリ」と切れた 。
私は力任せに美智子を突き放した 。彼女はよろめき、その裾が花瓶をなぎ倒して、白いバラが床一面に散らばった 。背後で美智子の叫び声が響く 。「浩介! 行く気!? 自分が誰か忘れたの? 私のお腹にいるのが誰の子か忘れたの!?」 その言葉は、私を引き戻そうとする縄のようだった 。だが、私はもう動いていた 。
式場を飛び出すと、冷たい風がビンタのように顔を打ち、雪の粒が襟元から入り込んで肌を刺した 。私は自宅へと走り、静まり返った玄関ホールに飛び込んだ 。「栞!」と叫んだが、返事はない 。奥へ進むと、階段脇の小机の上に一通の手紙が置いてあった 。見慣れた筆跡で私の名前が書かれている——敬称も、余地もない、ただの「浩介」という二文字 。私はその場に立ち尽くし、すぐには開封することができなかった 。胸の不安が、耐えがたいほどの痛みに膨れ上がっていた 。
ついに封を破った 。
「浩介、あなたの嘘にはもう疲れました」
目の前が暗くなった 。手紙は続く 。
「あなたは『やめる』と言ったけれど、結局やめられなかった。美智子との歪んだ関係を終わらせるつもりも、最初からなかったのでしょう。あなたの体から漂うあの匂いも、8年間繰り返された空虚な約束も、もう二度と聞きたくありません。除夜の夜に、息子から『どうしてパパはいつも別の女の人を選ぶの?』と聞かれるのはもう御免です。彼を連れて行きます。これは復讐ではなく、私たち自身を救うためです。探さないでください」
「探さないで」という一文を凝視しながら、私は理不尽な怒りに駆られた 。彼女に、これほど潔く私を「夫」や「父親」の座から引きずり下ろす権利があるのか? だが、その怒りは一瞬で消え、深い恐怖に取って代わられた 。
何度も彼女の番号を呼んだが、返ってくるのは冷ややかなアナウンスだけだった 。まるで誰かが扉の向こうで鍵をかけ、扉越しに「もう遅すぎる」と告げているようだった 。
私は屋敷の使用人を捕まえ、咆哮した 。「彼女はいつ出た!? どこへ行った!? 誰が子供を連れ出すのを許した!」 使用人は顔を真っ青にして震えながら答えた 。「だ、旦那様……分かりません……奥様はただ、今夜は若旦那と雪を見に行くからとだけ……。私たち全員に心付けをくださって、何も聞かないようにとおっしゃいました……」
