紹介
チャプター 1
除夜の鐘が鳴り響き、深夜になってようやく玄関の鍵が開いた。浩介がようやく帰宅したのだ。
私は盲目だ。その分、嗅覚は鋭い。彼から漂う微かなタバコの臭いと、あの子——義妹の美智子がつけている香水の香りにすぐ気づいた。チュベローズ、ホワイトムスク、そして銀葉の冷やかな残り香。その香りは、陶酔をもたらす媚薬のような効果があることで広く知られている。彼と美智子の間で、どんな情熱的な場面が繰り広げられたのかは、想像に難くない。
彼は私の隣に来ると、両腕で私を抱きしめた。その瞬間、大麻の臭いが鼻を突き、胃の底から込み上げる吐き気をこらえた。
私は静かに、しかし拒絶を込めて彼を押し戻した。「浩介、先にシャワーを浴びてきて」私は冷淡に言った。「情事の後の、あの湿り気を帯びた匂いが鼻について離れないの」
彼は反射的に一歩下がった。「すまない、栞。俺が三浦家の養子であることを恨んでくれ」彼は声を潜めて続けた。「安心しろ。美智子が妊娠したんだ。もうすぐ、お前を三浦家の正式な『姐さん』にしてやれる」
私は唇を噛みしめ、飲み込まれそうな痛みをこらえた。「私は三浦家の地位なんて欲しくない。ただ、あなたと堂々と一緒にいたいの……本当の家族のように」
「それが何を意味するか分かっているのか?」薬物のせいで、浩介の気性は以前よりずっと荒くなっていた。「三浦家を離れたら、誰がこの高価なヘロインを調達してくれるんだ!」
私の手は震え、声はか細くなった。「もう手は出さないって、言ったじゃない」
彼は少し黙り込んだ後、強引に私をあの忌まわしい匂いの中へ引き寄せた。「お前が一番愛する女だ。美智子が跡取りを産んだら、彼女とは縁を切る。お前を正式な妻にするから、いいだろう?」
一瞬、心が揺らぎそうになったが、彼と美智子が睦み合っている光景を想像するだけで、怒りが再燃した。「シャワーを浴びて」私は再び突き放し、手探りで自分の部屋へ戻った。
背後から、浩介の無神経な声が聞こえた。「心配するな、これからはもっとお前との時間を作る。美智子も理解してくれるさ。彼女も、俺にお前を大事にしてほしいと言っているんだ」
返事をする気にもなれなかった。あまりにも滑稽だ。妻である私が夫と過ごすのに、なぜ別の女の許可が必要なのだろうか。私はまるで、彼の出世と薬物中毒の邪魔をする日陰の女のようだ。
その時、美智子の小間使いが叫んだ。「お嬢様が倒れました!」「すぐ行く! 医者を呼べ!」浩介の声が急に慌ただしくなった。 彼は独り言を漏らした。「おかしいな、さっきまであんなに元気だったのに……俺が体を洗ってやった時は……」彼は失言に気づき、不自然に言葉を止めた。
「埋め合わせはする。美智子は妊娠初期で、俺がそばにいないとダメなんだ」浩介は私の返事も待たずに、玄関へ向かった。 そこへ、部屋から息子の蓮が出てきた。「パパ、どこに行くの?」
浩介はこちらを見ているようだった。私は拳を握りしめた。「浩介、帰ってきたばかりじゃない。少しは私と蓮のために時間を使えないの?」
彼は一瞬躊躇したが、「すぐに戻る。両親も不在だし、美智子は一人になるのを怖がっているんだ。俺が行かなきゃならない」と言い捨て、扉を激しく閉めて出て行った。
私の心は粉々に砕け散った。蓮がそばに寄ってきて、小さな声で尋ねた。「ママ……パパ、また叔母さんのところに行ったの? ママが奥さんなのに、どうしてパパは毎晩違う女の人と寝るの? あの人はパパの妹でしょう? パパはどうして、僕たちと除夜を過ごしてくれないの?」
私は屈み込んで息子を抱きしめ、無理やり微笑みを作った。この恥ずべき泥沼を説明する言葉が見つからなかった。私は話をそらし、彼が眠りにつくまで一緒に遊んでやった。
その後、私はベッドの中で幾晩も眠れぬ夜を過ごした。数年前、浩介のために私は京都の名門・一条家の継承権を捨てた。家族は皆、彼のような男はふさわしくないと反対したが、私はそれに背いて駆け落ちしたのだ。しかし、彼が薬物に溺れていることを知るのに時間はかからなかった。盲目の私に代わって、息子は「パパはいつも痩せていて、顔が真っ白だよ」と教えてくれた。
三浦家の当主は最後通牒を突きつけていた。「三浦の血を引く跡取りを産んだ者だけが、この組織を継ぎ、次の組長になれる」 浩介が帰宅するたびに漂う、美智子の香水。そして繰り返される空虚な約束。「待ってくれ、必ず薬もやめる。組長になれば、お前に全てをやる」
8年の月日が経ち、残ったのは壊れた約束の山だけだった。私はもう限界だった。私は遠く京都の家族へ電話をかけた。 「栞、お前なのか? どこにいるんだ。帰ってきなさい。皆、お前を心配している。3人の兄たちもお前を待っているんだぞ」
涙が滲んだ。もう、去る時だ。息子のために、そして自分のために。
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