第1章
酒井蒼真は、浮気をした。
三日前。心海は八時間にも及ぶ手術を終え、ふらふらの足取りで病院を出たその瞬間――匿名で送られてきた一枚の写真を受け取った。
そこに写っていたのは、つい先日まで「記念日は一緒に過ごせない。すまない」と申し訳なさそうに言っていた夫だった。H市で別の女と遊び回り、挙げ句の果てには同じベッドで裸のまま向き合っている。
心海は、そこから三日間、夢遊病者みたいに過ごした。
そして今日、酒井蒼真の『出張』がようやく終わった。
同じ病院に勤務している心海は、彼が戻ったと聞いた瞬間、酒井蒼真の執務室へ駆け込んだ。
ドアの前で長いこと立ち尽くし、ようやく操り人形のように手を上げてノックする。
「入れ」
ドアを押して入ると、男はデスクの向こうでカルテに視線を落とし、黙々と書きつけていた。出張明けの眉間には疲れが濃い。
「どうした」
酒井蒼真は顔も上げない。
心海は笑みを作り、書類をサイン欄のページで開いて差し出した。
「備品の購買契約です。前から話が出てた、最新の探入式デバイスを産婦人科に入れる件」
酒井蒼真は科の責任者だ。機器の購買契約はすべて彼の署名が必要だった。
「操作も簡単で、外科のスタッフでもマニュアル通りに使えます。治療効率、かなり上がるはずです」
酒井蒼真は軽くうなずき、受け取ると末尾にさらりと署名した。
「ご苦労。今夜は同僚と食事だ。待たなくていい」
心海は一瞬だけ間を置き、平然と答える。
「わかった」
書類を抱えて外へ出る。通りがかった手術室のほうから、かすかな物音がした。
何が起きているかなんて、もうわかっている。胸がぎゅっと詰まったのに、心海は聞こえなかったふりをして、まっすぐ歩いて離れた。
自分の科に戻ったところで、ドアがノックされた。
心海は視線を上げ、静かに言う。
「どうぞ」
「先生」
入ってきたのは、教え子の宮本有紗だった。
宮本有紗は顔をくしゃっとさせ、悩み抜いたように口を開く。
「本当に、海外研修の枠……申請しちゃうんですか? 三年ですよ。三年も行ったら……お義兄さんはどうするんですか」
心海には、これまでにも似た機会がいくつもあった。行けば確実に昇進できる。
それでも彼女は、酒井蒼真のために毎回断ってきた。
最初は宮本有紗も「もったいない」と思っていた。能力でいえば、先生が酒井蒼真に劣るわけがない。それなのに家庭のために自分のキャリアを削るなんて、と。
だが時間が経つにつれ、二人の仲の良さに惹かれ、陰でこっそり推すようにさえなっていた。
そんな心海が、今回に限って突然「行く」と言った。宮本有紗が呆然とするのも無理はない。
心海はうなずき、あくまで淡々と言った。
「もう主任に申請書は出した。……彼のことは、私が片づける」
そう言いながら、手元の購買契約書をそっとずらす。下から現れたのは、離婚協議書だった。
心海は指先で、酒井蒼真の署名の上をゆっくりとなぞる。
脳裏に浮かんだのは三年前、あの男の揺るぎない表情。
――この酒井蒼真、生涯、心海だけを愛する。
誓いの声が、まだ耳に残っている。
けれど結婚してたった三年。
「お前しかいない」だった酒井蒼真は、もう別の女に視線を移している。しかも結婚記念日当日に「出張」と嘘をつき、H市でその女とデートに興じていた。
写真が心海のスマホに届いた時、彼女は八時間近い手術を終えた直後で――画面を見た瞬間、膝が抜けて宮本有紗に倒れ込んだ。
どうして。
酒井蒼真が、私を裏切るなんて。
心海は必死に「偽物だ」と証明しようとした。
だが糸を一本ずつほどくうちに、これまで見ないふりをしてきた違和感が次々と浮き上がり、神経を刃で削られるようだった。
彼が言っていた残業は、彼女の誕生日に別の女と過ごすため。
急患だと言ったのは、彼女が「急に山で日の出を見たい」と言い出したから。
さらには高熱で意識を失っている彼女を置いて、別の女と犬の誕生日を祝っていたことさえある。
「……もういい」
心海は思考を断ち切り、笑って言った。
「私たちの間に誤解なんてない」
宮本有紗は肩を落としたが、心海の決意が揺るがないと見て、それ以上は言わなかった。
午後は患者も少なく、心海はきっかり五時に退勤した。
帰り際、酒井蒼真の執務室の前を通る。ドアがわずかに開いていて、中からひそひそと話す声が漏れてきた。
その声に、足が止まる。
「蒼真兄……さっき、ちょっと痛かった……」
「大丈夫だって言ったのに。あなたが自分で診るって聞かないから」
男女の声が絡み合い、心海の耳に突き刺さる。
視線が勝手に中へ吸い寄せられ――藤井愛美が頬を赤らめてベッドの縁に座り、酒井蒼真はティッシュで指を拭いていた。
酒井蒼真は伏し目がちに、甘やかすように言う。
「他人に診せるのは不安だ」
藤井愛美は小さく鼻を鳴らし、ぷいと横を向いた。
その瞬間、ふいに視線が心海とぶつかる。
藤井愛美は眉を上げ、唇の端に挑発的な笑みを刻むと、見せつけるように酒井蒼真の服の裾をつかんだ。
心海の手が、体の横でぎゅっと握り締められる。
ゆっくり顔を上げると、ワンテンポ遅れて振り向いた酒井蒼真と目が合った。
男は平然と視線を外し、何かを低く言う。
藤井愛美はすぐに口元をゆがめて笑った。
その眩しいほどの笑顔が、心海の目を刺す。
心海はほとんど逃げるように視線をそらし、足早に病院を出た。
家に着いて間もなく、外から車のエンジン音。
酒井蒼真だ。
以前なら飛び出して迎えに行っただろう。
だが今の心海は、疲れ切った顔でソファに座り、黙って男が入ってくるのを見ていた。
白衣を脱いだ酒井蒼真は、シンプルなシャツにスラックス。それでも妙に気品だけは崩れない。
「飯、作ってないのか」
酒井蒼真は自然体で言う。
心海は答えず、逆に問う。
「今夜、同僚と食事じゃなかったの?」
「仕方ないね。家で酢の瓶でもひっくり返したのかと思ったよ」
酒井蒼真は口元に微かな笑みを浮かべ、からかうように言った。
「これ以上遅く帰っていたら、家まで浸水するところだった」
胸の奥が、きゅうっと痛んだ。
抑えきれない酸味が広がり、目の奥が熱くなる。
「酒井蒼真……何か言うこと、ないの?」
心海はとうとう堪えきれずに問うた。
酒井蒼真は笑みを消し、淡々と言う。
「普通の身体チェックをしただけだ。変な勘繰りをするな」
「身体チェック?」
心海の声には刺が混じった。
「いつから外科の酒井主任が、婦人科の診察まで兼任するようになったの」
「心海。俺と愛美の関係を疑ってるのか」
声が低く沈む。
愛美。
その呼び方の親しさが、心海の神経を逆なでする。
昔、彼は藤井愛美の名を出す時は、いつも距離を置いた口調だったのに。
いつから、そんな呼び方をするようになった?
疑念と探りが渦を巻き、理性がぐしゃぐしゃになる。
爪が肉に食い込み、掌がじっとり湿った。
酒井蒼真は苛立たしげに吐き捨てる。
「いつからそんなに考えが汚くなった。愛美はお前の妹だ。たとえ結婚を知らなくても、俺は義兄だろうが」
「お前の目には、俺がそんなことをする男に見えるのか」
「それに、もし本気で愛美に気があったなら――あいつが藤井家に戻ってきた時点で、最初から愛美を選べただろ。わざわざ叩かれてまで、お前と結婚する必要なんてない」
言葉が、雷のように耳元で炸裂した。
頭が真っ白になるのに、思考だけが勝手に回り出す。
――そうだ。
心海は、そもそも藤井家の実の娘ではない。
