第2章

あの年、藤井母が病院で出産した際、取り違え事故が起きた。

それから二十三年――心海は藤井家で蝶よ花よと育てられた一方で、藤井愛美は実の親のもとで、骨まで削られるような日々を送っていた。

ようやく見つかって戻ってきたとき、愛美が身につけていたのはサイズの合わない服。むき出しの手首には、紫色の痣がいくつもくっきり残っていた。

実の娘がそんな姿になっていたのを見て、藤井父と藤井母は泣きながら心海に「出て行け」と言い放った。

そして償いのつもりなのか、ありとあらゆるものを愛美へ押しつけるように与え始める。

宝石、服、スポーツカー……それだけじゃない。

心海と酒井蒼真の婚約まで、まるごと差し出そうとした。

心海は泣きながら拒もうとした。けれど愛美の全身に刻まれた傷を目にすると、言葉は喉の奥で凍りついてしまう。

そんな中、藤井家と酒井家が揃って婚約の話をまとめようとした場で、酒井蒼真が突然立ち上がった。

両家の親の前で、迷いのない声で宣言する。

「この先、心海以外とは結婚しない!」

その一言で場は一気に騒然となった。

藤井愛美は蒼真の言葉を聞くなり泣き出して個室を飛び出し、その夜、自分の部屋で手首を切った。救急で運ばれ、救命処置――。

その騒ぎで、心海と酒井蒼真の婚約は完全に棚上げになった。

もう終わりだ。きっと二人はすれ違ってしまう。

心海がそう思い始めた頃、酒井蒼真は、彼女の家の下に立っていた。

「心海。俺と駆け落ちするか」

心海は、泣いて、笑って。

その日のうちに二人は誰にも言わず市役所へ行き、婚姻届を出した。

過去から引き戻され、心海は酒井蒼真を見た。

その瞳の底には、もう何の希望も残っていない。

「……そう?」

声は、ふっと空気に溶けて消えてしまいそうに淡い。

「じゃあ、私の考えすぎだったのかもね」

どうせ、二人がどんな関係でも、もう自分には関係ない。

あと三十日。正式に婚姻関係は解消され、お互い自由になる。

酒井蒼真は彼女の様子に、胸の奥が妙に引っかかった。眉を寄せ、先に声を柔らげる。

「もういいだろ。怒るな。数日後、お前の誕生日だ。休み取って海辺で日の出でも見よう」

口元をゆるめる。

「ずっと行きたがってただろ」

心海の脳裏に、藤井愛美のSNSがよぎった。

半月前、酒井蒼真と日の出を見に行った投稿が上がっていた。

あのとき蒼真は、心海に「隣の市でセミナーだ」と言った。

心海は早々に買っていた海辺行きの切符を払い戻し、荷物も一つずつ元の場所へ戻した。

その時、どんな気持ちだったか。

もう思い出せない。

海を見たいと言ったのは半年前だ。酒井蒼真は「行こう」と言いながら、何度も先延ばしにした。

会議、急患、疲れている――。

期待は外されるたびに痩せて、消えていった。

「いい」

心海は首を振る。半分は嘲り、半分は自嘲。

「どうせまた急患が入るんでしょう」

酒井蒼真は眉をひそめたが、すぐにほどけるように笑った。

「そんなに焼いているなら、今夜は朝までしっかり『お勤め』させてもらうよ」

そう言いながら抱き寄せ、唇を落とそうとする。

心海の肌に、ぶわっと鳥肌が立った。

蒼真が愛美と二人きりでいた光景が脳裏に刺さり、彼の手が彼女の身体を――そんな想像が一瞬で胃を掻き回す。

「……うっ」

吐き気がこみ上げ、思わずえずいた。

その反応で、酒井蒼真の顔が一気に冷える。

「俺が気持ち悪いって言いたいのか」

心海は押し返し、二歩下がる。

「……臭い」

薄いシダーウッドの香りに、ねっとり甘い匂いが混ざっている。まるで彼が、彼女の知らないところで藤井愛美と絡み合ってきた証拠みたいで。

「臭いだと?」

酒井蒼真は冷笑する。

「前は抱きついてきて、貼りつきたいくらいだったくせに」

「心海、いつまで疑ってる」

その言葉は細い針になって胸に刺さった。

心海は喉の詰まりを飲み込み、震える声を押し殺す。

「愛美とか関係ない。ただ、あなたが気持ち悪いだけ」

最後の七文字が、完全に火をつけた。

酒井蒼真は心海を乱暴に引き寄せ、歯を食いしばる。

「なら今日は、徹底的に気持ち悪くしてやる」

大きな手が衣服の裾から滑り込み、薄い胼胝のある指が肌をなぞる。

心海はぞくりと震え、背筋を氷が駆け上がった。

「何してるの、放して!」

必死に抵抗する。

だが蒼真は聞こえないふりをして、両手首をつかみ、頭の上へ押さえつけた。

覗き込む瞳は深く暗い。

「当然だろ。夫の義務だ」

区切りながら吐くその言葉に、心海の背筋が粟立つ。

態度を変えて怒りを鎮めようとしても、かつて手を繋ぐだけで幸せだったはずの触れ合いが、今は皮膚を剥ぎ取りたくなるほど嫌だった。

「放して! 酒井蒼真、これ……夫婦でも強姦だよ!」

「警察が動くかどうか、だな」

酒井蒼真は冷たく言う。

心海は歯を食いしばり、ありったけの力で抵抗したが、男の拘束はびくともしない。

「ビリッ——」

布が裂ける音。

肌が空気に触れ、冷たさが刺さる。心海の瞳に絶望が滲んだ、その瞬間。

着信音が鳴り響き、酒井蒼真の動きが止まった。

心海が聞いたことのない着信音。

そして蒼真の表情が、嘘みたいに柔らかくなる。

次の瞬間、甘い声が落ちる。

「愛美、どうした」

受話器の向こうから、か細く甘えた声が電流越しに届いた。

「蒼真兄……わたし、なんか具合が悪いかも……」

「何だって?」

酒井蒼真は跳ね起きる。

「どこが? 今すぐ行く」

彼は扉へ向かって歩き出した。巻き起こる冷たい風が、心海の肌を切り裂くみたいで、彼女は震え、無意識に体を丸める。

涙が頬を伝い、音もなく枕へ吸い込まれた。

諦めたはずなのに。

酒井蒼真が迷いなく去っていく背中は、鈍い刃で心臓を叩かれるように痛かった。

三十分後。藤井愛美はまたSNSを更新した。

――『だから検査するなら気をつけてって言ったのに。結局、塗り薬まで持ってきてもらう羽目に』

添えられていた写真には、一本の軟膏と、骨ばった男の手だけ。

だが心海は一目でわかった。酒井蒼真の手だ。

人差し指の傷跡――あれは昔、心海のために料理をして熱い油で火傷した痕。

けれど今、酒井蒼真はもう長いこと、彼女のために料理なんてしていない。

その夜、酒井蒼真は帰らなかった。

心海は夜から夜明けまで待った。時間が過ぎるほど、酒井蒼真が心に残した痕跡を一本ずつ引き剥がす。痛くて息ができないほどでも。

朝。

心海はスマホを取り、弁護士にメッセージを送った。

『離婚協議書、彼はサインしました。至急、手続きを進めてください』

すぐに返信が来る。

『承知しました』

それから数日、心海は何事もなかったように出勤し――。

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