第4章 一触即発の空気
来たのは酒井蒼真だった。
酒井蒼真は怯えた顔で、足早に部屋へ踏み込むなり、心海を乱暴に突き飛ばした。焦りを露わにしながら藤井愛美へ駆け寄る。
強く押された心海は体勢を崩し、そのまま床へ転がった。反射的に両手を後ろへ突いて支えようとする。だが――掌に、まだ血の止まらない裂けた傷があることを忘れていた。
床が容赦なく傷口を押しつぶし、骨に届くような痛みが走る。
「……っ」
心海は喉の奥で、短く息を詰めた。
酒井蒼真は藤井愛美の手を掴み、慌てて立たせて抱き寄せる。顔色を確かめるように上から下まで視線を走らせ、痛ましげに問う。
「愛美、大丈夫か? どこか具合悪いところは」
藤井愛美はそのまま彼の胸へ身を預け、潤んだ瞳で見上げた。声は甘く、柔らかく――さっき包丁を握って心海へ突っ込んできた凶暴さなど、欠片も見えない。
それを見た瞬間、心海の視界がぐらりと揺れるほど、怒りが込み上げた。
……本当に、よく演じる。
「蒼真兄……痛い」
藤井愛美が唇を尖らせ、いかにも委屈そうに言う。
その一言が導火線だった。
酒井蒼真が勢いよく顔を上げ、心海を睨みつける。口を開いた途端、吐き出されたのは糾弾だけ。
「心海! お前、何してるんだ! 自分の妹をいじめるなんて……俺、今まで知らなかった。お前がそんな人間だとはな!」
「愛美はな、小さい頃からお前の代わりにどれだけ苦労してきたと思ってる。よくそんなことができるな」
そして顔を強張らせ、冷たく言い放つ。
「今すぐ愛美に謝れ」
心海は信じられないものを見る目で、酒井蒼真を見た。
かつて「一生一緒だ」と言った男が、いまは別の女を抱き、平然と自分に謝罪を命じる。
その腕の中で、藤井愛美が薄く笑った。
勝ち誇った、偽物の微笑み。
可笑しくて仕方がなかった。
三年間の結婚が。彼の言葉を信じた自分が。誓いの「期限」に賭けた、その浅はかさが。
誰も助けてはくれない。
心海は黙って自力で立ち上がった。切れた腕から血が垂れ、ぽたり、ぽたりと床に赤い点を落とす。目に刺さるほど鮮やかな赤。
心海は冷たく笑い、二人をまっすぐ見据えた。そして手を突き出す。
「酒井蒼真……目、見えてる?」
「先に刃物を振り回したのはそっち。なのに、来て早々に私を責めるの?」
「あなたの中で私は――そこまで最低な女なの」
声は少し掠れていた。喉が詰まる。それでも言葉は一つずつ、石を投げるみたいに重かった。
酒井蒼真は血の滲む傷に視線を落とし、一瞬だけ動きを止めた。瞳の奥に、複雑な色がよぎる。三年の時間が、何かを思い出させたみたいに。
けれど。
藤井愛美が彼の袖をきゅっと引いた。
涙を溜めた目で見上げ、囁く。
「蒼真兄……痛い……」
その仕草が、完璧に彼の逡巡を断ち切る。
酒井蒼真はすぐに藤井愛美を覗き込み、優しく宥めた。
「よしよし。痛くない。あとで病院に連れていく」
そして顔を上げると、声音はまた硬くなる。
「愛美は大人しいんだ。怒っても自分を傷つけるくらいで……お前が先に追い詰めたに決まってる。愛美がやり返したのは仕方ない!」
あまりの言い分に、心海は怒りで笑いそうになった。
胸の奥で、怒りと虚しさが火になって燃え上がり、理性を焼く。
そのとき。
「心海! あんた、妹に何をしたの!」
入口から怒鳴り声が飛んできた。
藤井母だった。藤井父も一緒に、階下から上がってきたのだろう。騒ぎを聞きつけて駆けつけた、その目が室内を一掃する。
酒井蒼真に抱かれる藤井愛美。
床に落ちた血のついた包丁。
そして離れた場所に立つ心海。
藤井母は顔色を変え、数歩で距離を詰めると、藤井愛美を酒井蒼真の腕から奪うように抱きしめた。
「愛美! どうしたの!? 心海にいじめられたの? 言いなさい、ママが守ってあげるから!」
藤井愛美はすぐさま藤井母の胸に顔を埋め、わっと泣き出した。
「ママ……姉ちゃんがね……私が蒼真と結婚するって聞いて、変になって……包丁で刺そうとして……」
涙は、まるで糸の切れた珠みたいに落ちていく。
藤井母は背中を叩きながら宥めつつ、心海を睨みつける。声は冷たく尖った。
「心海、気持ちにわだかまりがあるのは分かる。でも、だからって――」
視線の端で酒井蒼真をうかがい、さらに言い放つ。
「愛美に謝りなさい!」
心海はその場に立ち尽くした。
いちばん近かったはずの人たちが、揃って自分の敵側に立ち、奪う側の人間を守っている。
腕の痛みなんて、どうでもよかった。
胸の奥を抉られるこの痛みに比べたら。
心海は、ふっと笑った。
それがだんだん大きくなって、止まらなくなる。
可笑しい。可笑しくてたまらない。
これまでの全部が、滑稽で。
笑いすぎて、涙が滲んだ。
四人は意味が分からず、顔を見合わせるばかり。
心海は目尻を拭い、嘲るように言った。
「藤井愛美……ほんと、上手に演じるね」
藤井愛美の顔が一瞬で歪む。だがすぐ、傷ついたふりをして藤井母の胸にしがみついた。
「謝る? あり得ない」
心海は机の上にあった布を掴み、雑に傷口へ巻きつける。ぎゅっと締め上げ、無理やり血を止めた。
そのまま大股で入口へ向かい、目もくれずに言う。
「どいて」
酒井蒼真が眉を寄せる。
「どこへ行く」
心海は不思議そうに見返した。
「私の家に帰るだけ」
酒井蒼真は答えない。
代わりに、入口に大柄な男が二人立った。酒井蒼真が連れてきたボディーガードだ。
心海の顔色が変わる。
「酒井蒼真……どういうつもり」
酒井蒼真は黙ったまま、藤井愛美を抱き上げて大股で歩き出す。
玄関を出る直前、ふと立ち止まり、振り返った。
その目は氷みたいに冷え切っている。
「愛美を病院へ連れていく。俺が戻るまで、お前はどこにも行くな」
「それと――愛美に何かあったら、お前も代償を払うことになる。覚悟しておけ」
言い捨てて、酒井蒼真は去った。
心海は硬直したまま、最後の光景だけを見た。
酒井蒼真の肩越しに、藤井愛美がこちらを見て、勝ち誇った笑みを浮かべる――挑発の、勝利の微笑みを。
