第2章

「……止めて……」

荒い息。声は掠れて、ほとんど届かない。

「……伝えて。止めろって」

入口の狼人衛兵は腕を組んだまま、瞼すら上げない。

「アルファの命令だ。ルナの体質を安定させるには、相当な量が必要だ。陣は止められない」

「彼女はルナじゃない!」鎖を引いた瞬間、手首の裂け目がまた開き、息を呑む痛みが走った。「流産なんかしてない! あんたたち狼人なら嗅げるでしょ。黒魔術の臭いだけで、幼狼の血統の匂いが一切ないって!」

衛兵が眉を寄せる。

鼻先がひくりと動き――表情が変わった。

嗅いだのだ。

こちらから漂う、本物の狼族の幼崽の血の匂い。狼人にとって、指紋みたいに唯一の匂い。

――それでも動かない。

アルファの命令は絶対だ。

次の瞬間、衛兵の腰の通信水晶が灯った。

上階の声が落ちてくる。

ケイルの声は、十分前に私の喉を締め上げた男と同一人物とは思えないほど甘い。

「横になって。動くな。俺がついてる」

匙が椀の縁に当たる音。ふう、と冷ます息。

「熱いぞ。極上の体力回復薬だ。飲めば、子は大丈夫だ」

セレネが弱々しく呻いた。

「ケイル……飲めない……お姉さまが下で苦しんでるのに、私……胸が痛い。もう、いいの。子がいないのは……私たちの運命……」

「その毒婦の名を出すな」

ケイルの声が冷えた。

「俺たちの子を殺した。抽り尽くす程度じゃ軽い」

向きが変わり、水晶越しに命じる。

「チャールズ、どこまで抽った」

衛兵チャールズが直立する。

「アルファ様、半分以上に達しています。ですが……」

彼は足元の血溜まりを見下ろした。

血はすでに靴先へ触れようとしている。

「エララ様が大量出血しています。状態が良くありません。――続行しますか」

「ケイル!」

残りの力をかき集め、水晶へ吼えた。人の声じゃない。

「吸った分を吐き出させて! それは私の命よ! いま……本当に痛い……!」

腹の奥で、小さな命が痙攣しているのが分かる。

抵抗じゃない。瀕死だ。

父親が、父親自身の命令で、一口ずつ奪っている。

「あなたの子を妊娠してる! ケイル、お願い……止めて、医者を……私たちの子が……!」

私は何もいらない。尊厳も、糾弾も、誇りも。

子が生きてくれさえすれば。

二秒の沈黙。

「この期に及んで、そんなくだらない嘘」

平坦な声。温度がない。

「まだ叫べるなら、抽りが足りない。チャールズ、続けろ。通信水晶は遠ざけろ。セレネの休養の邪魔だ」

「ですがアルファ様、床が……確かに――」

「俺の命令が聞けないのか?」

声が跳ね上がり、アルファの威圧が水晶越しに叩きつけられた。衛兵さえ身震いする。

「陣の速度を上げろ! 必要な量に満たないというのなら――死んでも鎖の上で死なせろ!」

水晶が消えた。

ケイルが切った。

同時に、床の符文陣が唸り、吸引が倍になった。

「――っ、あああ!」

最後の魔力回路が、ぷつりと崩れた。

金色の生命源力が堤を切ったように噴き出し、裂ける感覚が全身を貫く。胸腔に手を突っ込まれ、魂の芯を掴まれて引きずり出されるみたいな――言葉にできない痛み。

ぽた。

ざあっ。

暗赤色の血が腿から噴き、黒い符文陣に跳ねてじゅっと音を立てた。

血溜まりの中央に、ぼんやりした塊。

拳より小さい。手足と頭の輪郭だけが分かる白い肉塊――血に浸かり、色を失っている。

私の子。

数秒、見つめる。

「……私の、子……」

煙のような声。

私は目を閉じた。

「ケイル……来世は、お前の一族を永遠に呪ってやる……」

意識が薄れていく。衛兵が何か叫んでいるが聞こえない。心拍が遅くなる。止まりかけの機械みたいに。

沈みきる、その瞬間。

頭の奥に声が響いた。

耳から入る音ではない。意識の深層に直接差し込まれる、冷たい、機械的な声。

【警告:宿主の致命的な情動損傷、および肉体崩壊を検知。魔力流失95%。肉体完全度12%未満】

【生命力10%未満】

【判定:死亡間際】

【魂核保護のため『魔術師・最終防衛機構』を自動起動――『魂氷封』プロトコル】

冷たい壁がせり上がり、私と外界を切り離す。

【痛覚神経遮断……完了】

【情動中枢クリア……】

脳内に刃が走り、正確に何かを切り落とす。

五年住み着いていたもの。

朝いちばんに思い浮かべた単語。

魔術師塔の地位を捨てた理由。

眠れない夜に自分を宥めた言い訳。

一瞬で消滅。跡形もなく。

【クリア対象:情動結合オブジェクト『ケイル』 進捗100%】

【クリア完了】

【魂完全度97%。情動モジュール隔離】

【宿主は30秒後に覚醒】

私は目を開けた。

衛兵チャールズは、死血の匂いを嗅いだ瞬間、二メートル近い巨体で「どさっ」と膝をつき、全身を震わせた。

「……エララ様……」

彼が顔を上げ、私の目とぶつかった。

「こ、これは……アルファ様の子……」

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