紹介
ドアの隙間から男の声が漏れ聞こえてきた。低く、酷くぶっきらぼうな声。
「セリーン、分かっているだろう。あの魔物ハンターどもを遮る盾として、彼女の『帝国魔導師』という背景が必要だったんだ。彼女の体から生命魔力を残さず吸い尽くし、俺たちの子供を育て上げたら、あんな女いつでも捨てられるただのゴミだ」
私の手は宙に浮いたまま止まり、ウェディングドレスの裾が床に広がっていた。指先が、ガタガタと震えている。
5年。
5年間も尽くしてきた結果が、ただの『高級な輸血パック(魔力供給源)』だったなんて。
部屋の中から、女の甘ったるい笑い声が聞こえた。
「でもカエル、今日は一応あなたたちの結婚式よ? たえ彼女を愛していなくても、名目的には彼女がルナ(群れの女王)になるんじゃ……」
「あんな女にその資格はない」
カエルは一瞬の迷いもなく、女の言葉を遮った。
「俺のルナは、いつだって君だけだ」
私は手元のはめたダイヤモンドの指輪を見つめた。
いわゆる『運命の伴侶(メイト)』。
――本当に、笑わせてくれる。
チャプター 1
「彼女を娶るのは、ただの時間稼ぎだ」
扉の隙間から漏れてきた男の声は、低く、気だるげだった。
「セレネ、おまえも分かってるだろ。俺にはあいつの『帝国魔術師』って肩書が必要なんだ。あのウィッチャーどもを遠ざける盾としてな。――生命魔力を吸い尽くして、俺たちの子が育ったら、あとはいつ捨ててもいいただのゴミだ」
手が空中で止まった。婚礼衣装の裾が床を擦り、指先が小刻みに震える。
五年。
五年捧げて、結局は――高級な血袋。
扉の向こうで、女の甘ったるい笑い声がした。
「でもケイル、今日はあなたたちの結婚式よ。たとえ愛してなくても、彼女は名目上ルナで……」
「――あいつは不相応だ」
ケイルは一秒も迷わず遮った。
「俺のルナは、永遠におまえだけだ」
私は手元のダイヤの指輪を見下ろした。
いわゆる、運命の番。
笑わせる。
――私は扉を蹴り破った。
部屋の中の二人が同時に振り向く。新郎衣装のケイルは襟元を少しはだけ、琥珀色の瞳が私を見た瞬間、わずかに揺れた。セレネは彼の腕の中に寄りかかり、黒髪を白い寝間着に散らし、まるで白磁のような顔を覗かせている。
「邪魔ってわけ?」私はベールに手をかける。「だったら、魔術師塔から受け取った婚約の贈り物、全部吐き出しなさい。この結婚、こっちからお断りよ」
セレネの反応は、ありえないほど速かった。
さっきまでケイルの胸に縋っていた女が、次の瞬間には悲鳴を上げて後ろへ倒れる。両手で下腹を押さえ、純白の裾にじわりと赤が広がった。口元には黒い血が一筋。
「わ、私の子……! アルファ、お腹が……痛い……!」
血の中で震えるセレネを、ケイルが抱き起こす。そして私を見た。最初から罪状を決めている目。
「……何をした」
「何を、って?」私は冷たく笑った。「手すら上げてない」
言い終える前に、アルファの威圧が叩きつけられた。
膝が崩れ、私は床に膝をつく。ケイルは怒り狂った獣みたいに飛びかかり、片手で喉を締め上げたまま壁に叩きつけた。後頭部が石煉瓦にごんと当たり、視界がぐらりと暗む。
「おまえ以外に誰がやった。――悪辣な魔術師が」
握る力がさらに増す。私は必死に指を引き剥がそうとしても、息が吸えない。
「わたしは……触って……」
「まだ嘘を吐くのか!」
嫌悪が目いっぱいに満ちていた。
「俺の子を宿したセレネが妬ましくて殺そうとしたんだろ。エララ、おまえは……反吐が出る」
喉が、がり、と鳴った。
私は反射的に下腹を庇う。
そこにも、いる。
「ケイル……」
声にならず、口の形だけで言う。
「放して……私も、妊娠してる」
彼は私の手を一瞥し、鼻で笑った。
「罪逃れに、何でも言う」
ゴミを捨てるみたいに放り投げられ、床に転がった。口の中が血の味でいっぱいになる。
ケイルは呻くセレネを抱えたまま出ていき、振り向きもしない。
「祭壇へ引きずれ。陣を起動しろ。セレネが子を保てないなら――一滴ずつ吸い尽くしてやれ」
狼人の衛兵が二人、私に手を伸ばした。
「触るな!」私は魔術を――
「黙れ!」
首筋に掌底が落ちた。魔力回路の結節点を正確に打ち抜かれ、指先に灯りかけた光がぷつりと消える。
廊下。階段。地下へ。
婚礼衣装は石畳に擦れて擦り切れ、白布は裂け、その破片がずるずると尾を引いた。
地下祭壇。
刻印された玄鉄の鎖が手首に噛みつき、宙吊りにされる。
上階では、ケイルがセレネを慎重に寝台へ下ろしていた。通信水晶はつながったまま。
私は水晶に向かって言った。
「ケイル、必ず後悔する」
返ってきたのは、たった一言。
「――搾れ」
老祭司モーリスが破魔鋼のダガーを手に近づく。半年前、私が贈ったダガーだった。
「申し訳……ございません、エララ様」目を伏せ、私を見ない。
「私の魔力を搾れば、お前らは――」
刃が右手首を裂いた。
どく、と血が溢れ、金色の生命魔力が床の溝へ吸い込まれていく。符文の流路を辿って、上へ。何かが、吸っている。
私の根源。私と胎児の命。
寝台の上から、セレネの満足げな吐息。
「ん……気持ちいい……」
甘ったるい声。
顔から血の気が引いていく。
三十秒もしないうちに、下腹が唐突にひきつった。
温かい液体が腿を伝って落ちる。血の匂い。でも、それは全部、私のじゃない。
――私の子。
三か月の、小さな狼の子。
その父親は、別の女の寝台の傍にいた。
一度も、こちらを見ないまま。
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それは間違いじゃない。たしかに、金は必要だった。
でも――私はもう、残りの人生すべてを、彼が誰かを愛するのを見て過ごすために生きたくはない。
離婚届は、もうテーブルの上にある。今度こそ、私は懇願しない。縋りついたりもしない。
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