第3章

鎖が――がしゃん、と外れ、床に落ちた。

チャールズが手も足も使って這い寄り、震える手で錠を外そうとする。狙いが定まらず、何度も空を切った。私は腕をだらりと垂らしたまま立ち尽くす。手首の裂け目はまだ血を滲ませている。

「エララ様、アルファ様には……連絡しました……」

声が震えていた。

私は返事をしなかった。

俯いて、自分を見下ろす。

婚礼衣装はもう原形を留めていない。血と灰でべったり。雑巾みたいに汚れている。腿には半ば固まった黒い血塊。

床には、ぼんやりした小さな血肉の塊が、血溜まりの中で静かに横たわっていた。私は長いあいだ、それを見つめた。

頭の奥で何かが湧き上がりかけた。たぶん「悲しみ」や「怒り」の類のもの。けれど頭を出した瞬間、あの壁に押し戻される。

私は自分が誰かを知っている。

帝国上級魔術師見習いエララ。魔術師塔第七席の大魔導師梅林に師事し、生命魔力研究を専門とする。

たった今、三割の生命魔力を強制抽出され、流産したことも分かる。

ここが狼人の領地で、縛ったのも狼人で、命じたのが狼人の頭領だということも。

――なのに、思い出せない。

私は、どうしてこんな場所に、馬鹿みたいに居座ってた?

「……気持ち悪」

私はドレスの裾を引き裂き、右手首の傷に巻きつけて固く結んだ。布は一瞬で血を吸って赤黒く染まる。

地下室の鉄扉がバンと開いた。

ケイルが治療師を三人連れ、踏み込んでくる。黒い戦装束に着替え、襟元を大きくはだけていた。表情は見下すような、施しのような寛容。

「エララ」

彼が口を開く。

「癇癪は収まったか?」

私は壁にもたれ、黙っていた。

「セレネは安定した」三歩ほど手前で止まり、両手をポケットへ。「おまえが謝れば、式は予定どおり続行だ。花嫁はおまえのまま。今日の件は不問に――」

「あなた、誰?」

私は遮った。

声は大きくない。けれど、澄んでいた。

壁を支えに腰を起こし、上から下まで彼を眺める。屋台に放置されたガラクタを見る目で。

ケイルの表情が硬直した。

「エララ、くだらない真似をするな」眉が寄り、寛容が消える。「狂ったふり、記憶喪失のふりで、俺が可哀想になると思ったか。夢を見るな」

「ふり?」

私は首を傾げた。

「あんた、病気? 知らない人の痴話喧嘩なんて興味ない」

ケイルが一歩詰める。アルファのフェロモンが圧として落ち、普通なら脚が竦む。

私は退かない。むしろ半歩前へ出て、顎を上げた。

「言っておくけど――」一語ずつ区切って言い放つ。「無断で魔術師から生命魔力を三割強制抽出。魔術師塔法第七条第十三項違反。ついでに私の服も汚した」

右手をひらひらさせる。

「請求書は明朝そっちの領地へ送る。慰謝料込み三倍。精神的損害。治療費。あとこのドレス代。吸血鬼の特注で十二万金貨」

一拍。

「三日以内に払わないなら、私が直々にこのボロ屋敷、燃やしに来る」

ケイルは私の目を凝視した。挑発や芝居の痕跡を探すように。

――ない。

本当に、ない。

私の顔は凍った湖面のようで、その下には何もない。たとえあったとしても、氷が厚すぎて透けては見えない。

彼の表情が変わる。困惑、そして言葉にできない何か。

そこで私は、左手薬指の指輪に気づいた。

三カラット。内側に狼族の紋と文字――月が落ちるまで。

「ああ、これ」

私は指輪を掴み、指の節をねじ込むようにして引き抜いた。節の方が太い。無理に抜けば皮が削れ、血が溢れる。

痛い。

でも魔力を搾られる痛みに比べれば、蚊に刺された程度。

手を離す。

――ぴちゃ。

指輪は足元の濃い血と死肉の中へ落ち、小さな血花を跳ねさせた。

「ゴミは、ゴミ箱に」

私は手の埃を払った。

ケイルの顔色がようやく変わった。

怒りじゃない。動揺だ。自分でも気づいていない、本能的な動揺。

彼は私の肩を掴む。骨を砕くほどの力。

「死にたいのか! 俺の許可なく、俺の領地から一歩も――」

「放して」

私は彼の手を見た。

「他の女に触れた手で、私に触るな」

声は薄い。

「……汚い野犬」

ケイルが凍りついた。信じられないものを見る目で、私を見つめる。

その手が無意識に緩む。

私は彼の肩を押し退け、裸足のまま階段へ向かった。ぼろぼろのドレスが後ろに引きずられ、一歩ごとに石畳へ暗赤の痕が残る。

「捕まえろ!」

背後でケイルが怒鳴り、その声が地下室に反響した。不安げに松明の炎が揺れる。

私は振り返らない。

一段目に足をかけた、その時。

「アルファ様! アルファ様!」

祭壇を片付けていた治療師の声が裏返る。恐怖で震えている。

ケイルが苛立って罵る。

「何だ! 床を片付けろ!」

「ち、違う……この血が……!」

治療師の声はぶるぶる震えていた。

私は止まらない。一段、一段、上へ。裾がさわさわ擦れる。

背後で治療師が叫び切った。

「アルファ! 死血の組織……血脈純度が九割超! 見たことがない最上級のアルファ反応です!」

「エララ様は嘘をついていません! アルファ様が強制抽出して流産させたのは――あなた自身の、三か月の狼の子です!」

私の足が、ほんの一瞬だけ止まった。

ほんの、一瞬。

それから何事もなかったみたいに、また上る。

背後でケイルの声が崩れる。

「ありえない……最近、俺は彼女に触れてない……どうして……」

「違う、くそ……三か月前、確か一度……」

血溜まりの中の小さな血肉を見つめ、狂暴な気配が爆ぜた。

「……俺の、子……!」

遠ざかり、石壁に飲まれていった。

私は地下祭壇の鉄扉を押し開けた。

夜の冷たい風が吹き込み、草と土の匂いがした。月が白々と庭を照らしている。

私は破れ、臭う裾を持ち上げ、裸足で闇へ踏み出した。

背後の地下室から、ケイルの声。失って二度と取り戻せないものを失った者だけが出せる声。

私は振り返らない。

三か月前の夜。

アルファの発情期なんかじゃなかった。酒と薬で朦朧とした彼が私の部屋へ押し入り、耳元で何度も繰り返した。

「エララ、お前が欲しい」

あの夜、初めて思った。

――やっと、私を見てくれた、と。

今の私は静かに首を巡らせ、狼人の領地を見た。

「……ここは、私の居場所じゃない」

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