第2章

絵里視点

浜町御殿 バスルーム、パーティーの夜

ドアに鍵をかけ、大理石のカウンタートップに身を預ける。心臓はまだ、激しく高鳴っていた。

『一体、何が起こったの?』

鏡の中の自分を見つめる――頬は上気し、瞳は彼との対峙がもたらした興奮でまだきらめいていた。千恵の計画通り、悟の征服欲を煽るためにわざと挑発した。なのに、どうして私自身が、これまでにないスリルを感じているのだろう?

『俺はヤりたい女は誰でもヤる。お前もな』。彼の粗野な言葉が、あの危険な眼差しと共に脳内で反響する。

こいつが、千恵が言っていた生涯のライバルだという兄……確かに、傲慢さは筋金入りだ。

深呼吸を一つして、シャネルのクラッチからリップを取り出し、メイクを直す。鏡に映る女は完璧に見えた。今夜の私を偽る仮面、パーティーの女王・絵里だ。

「第一段階、完了」鏡の中の自分に囁く。「ターゲットの挑発に成功、征服欲を刺激完了」

バスルームのドアを押し開け、このパーティーから静かに抜け出す準備はできた。二階の廊下を通り過ぎる時、ふと、床から天井まである窓越しに階下のテラスが目に入った。

悟が一人、室内の喧騒に背を向けて立っていた。肩がわずかに落ち、どこか……疲れているように見える?

さっき『俺はヤりたい女は誰でもヤる』なんて傲慢に言い放った男とは、あまりにも対照的だ。今の彼は、むしろ普通の男の子のように見えた。

私は首を振った。これもまた、彼の女を落とすための手口の一つなのかもしれない。弱さを見せて同情を引く、という。

浜町御殿を出ると、潮風が顔を撫でた。私は、この全ての始まりを思い出していた……


一週間前、聖谷学院図書館

「絵里! お願い!」

顔を上げると、五条千恵がこちらへ大股で歩いてくるところだった。薄暗い照明の中、彼女が持つチェリーレッドのセイコーのバッグがひときわ目を引く。私はまだ整理すべき本を抱えていて、長時間ページをめくっていたせいで指先が少し白くなっていた。

「千恵? どうしてここに?」私は本を置き、彼女の姿に驚いた。唯一の親友である彼女が、特に私のバイト中に図書館まで訪ねてくるなんて、めったにないことだったから。

「ねえ、お願いがあるの」彼女は周囲を見回し、誰もいないことを確かめてからぐっと身を乗り出した。「しかも今回は……すごい報酬付きよ」

その悪戯っぽい表情を見て、また何かとんでもない計画を企んでいるのだと察した。「今度は何を企んでるの?」

「あのクソ兄貴への復讐よ」千恵は歯ぎしりし、瞳に怒りの炎を燃やした。「悟に思い知らせてやるのを手伝ってほしいの」

私は呆然とした。千恵と彼女の兄が子供の頃から喧嘩ばかりの犬猿の仲だとは知っていたけれど、今回は何かが違うように聞こえた。

「今度は何をしたの?」

「和也との関係をめちゃくちゃにしたのよ!」千恵は声を潜めていたが、怒りは明らかだった。「あいつが何したか分かる? 和也とのデート中に現れて、私が他の男に色目を使ってるって吹き込んだのよ!」

「待って、どうして悟が......」

「和也が私に相応しくないって思ってるからよ!」千恵は呆れたように目を白黒させた。「もう、子供の頃からずっと喧嘩ばっかり。あいつはいつも自分のことを守護者か何かだと思ってるけど、本当はただの支配欲の塊なの! だから今回は、あいつに振られるってことがどんな気分か味あわせてやりたいのよ!」

私は眉をひそめた。「何をしてほしいの?」

彼女は突然私の両手を取り、真剣な表情になった。「彼をあなたに惚れさせて、そしてこっぴどく振ってほしいの」

「おい、正気なの?」思わず声を上げてしまい、すぐに潜めた。「お兄さんを誘惑しろって言うの?」

「誘惑じゃないわ、正当防衛よ!」千恵は言い返した。「それに……」彼女は一旦言葉を切り、表情を和らげた。「タダでやらせるつもりはないわ。お金、払えるし」

「千恵、いいの……」私はとっさに断った。彼女にはもう十分すぎるほど助けてもらっている。奨学金の連帯保証人になってくれたり、私の口座にこっそり生活費を振り込んでくれたり。これ以上、彼女にお金を使わせるわけにはいかなかった。

「500万円」彼女は直接、値段を提示した。

私は息を呑んだ。「え? いや、それは多すぎる――」

「1000万円」彼女はためらうことなく倍額を提示した。

「千恵、あなた正気じゃないわ! そんな大金、受け取れない!」

「じゃあ、1600万円ならどう?」彼女はウィンクした。「断るのはやめて、ねえ。私にとっては大した額じゃないの。でも、あなたにとっては……」

息が詰まるような感覚に襲われた。1600万円……。それは母のリハビリ費用だけでなく、我が家の借金問題を完全に解決できる金額だった。

「千恵……」

「最後まで聞いて」彼女は私の手をさらに強く握った。「兄さんのことは私が一番よく知ってる。彼は本気で誰かを愛したことなんて一度もないの。彼にとって、女はただの征服対象。でも、絵里は違う。あなたは、まさしく彼のタイプよ。絶対に、この計画を手伝えるはず」

親友を見つめる私の心は、ぐちゃぐちゃに絡み合った感情でいっぱいだった。

「それと、忘れないで」千恵の声には、ある種の決意が込められていた。「彼を本気で惚れさせなきゃ意味がないの。ただの遊びだったら、あいつには何のダメージにもならないから」

母のリハビリ施設の請求書と、千恵の真剣な瞳を前にして、私は唇を噛み締め、ついに頷いた。

「わかった……やってみる」

「完璧!」千恵は興奮して私を抱きしめた。「さあ、計画を立てましょう。来週の浜町のパーティーが絶好の機会になるわ」

そうして、今夜のパーティーでの全ての出来事に繋がったのだ。


ベッドに横たわり、天井に映る月光の影をぼんやりと見つめる。今夜の悟との最初の対峙、彼の瞳に浮かんだ複雑な感情、そして千恵の言葉が頭の中を渦巻いていた……。

『彼を本気で惚れさせなきゃ意味がないの』

第一段階は成功したようだ。でも、どうしてだろう、物事は想像していたよりもずっと複雑な気がしてならなかった。

悟の反応は、確かに千恵が言っていた通りだった。彼の征服欲に火がついた。だけど、私を見る彼のあの眼差しは……。

考えすぎないようにと自分に言い聞かせる。明日からは、更なる挑戦が待ち受けているのだ。


翌朝

携帯のアラームが、浅い眠りから私を呼び覚ました。急いで身支度を整えて階下へ向かうと、寮の建物の外にマットブラックのテスラが停まっているのが見えた。

悟が車のドアに寄りかかり、スターバックスのコーヒーと上品なマカロンの箱を手にしていた。昨夜のパーティーであれほど傲慢だった男が、今は……相変わらず腹立たしいほど自信に満ち溢れて見えた。

彼はこちらに気づくと、まっすぐ歩み寄ってきた。あの自信たっぷりの笑みを唇に浮かべて。「朝食だ。正直、女のために朝食を買うなんて滅多にしないんだけどな」

「知らない人から贈り物をもらう習慣はないの」私は内心でこの行動の意味を分析しながら、無関心を装った。

「昨夜、俺がお前を手に入れることは絶対にないと言ったな」悟の瞳には、あの挑戦的な輝きが宿っていた。「だが、俺は信じない。俺に長く抵抗できる女なんていない」

なんて鼻持ちならない傲慢さ。でも、これこそが私が知っている遊び人だ。

「それなら、がっかりするかもね」私はコーヒーを受け取り、さりげないふりをした。

「賭けをしないか?」彼は身を乗り出した。その攻撃的な自信に、思わず後ずさりしたくなる。「一ヶ月以内に、お前を自ら俺の元に来させてやる」

私が何か言い返そうとしたその時、携帯が震えた。千恵からのメッセージだ。『進捗はどう? 忘れないで、彼を本気で惚れさせなきゃ意味がないのよ』

「行かなくちゃ」私は背を向けて立ち去ろうとした。

「待てよ」悟が呼び止めた。その声には、自信に満ちた確信が込められていた。「せめて名前くらい教えろよ。何しろ、次の獲物の名前くらいは知っておきたいんでね」

私は振り返り、彼のハンサムだが傲慢な顔を見つめた。そうだ――これこそが、昨夜『俺はヤりたい女は誰でもヤる』と言い放った男だ。

「水原絵里」そう告げると、私は足早にその場を去った。

「俺を拒んだのが間違いだったって、すぐに思い知ることになるぜ、絵里」彼が背後から叫んだ。

ちくしょう、どうしてこの傲慢な態度が、私の感情を……まさに予想通りに揺さぶるのだろう?

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