第3章

朝の会話がまだ頭の中で響いていた。悟の自信過剰な態度に、腹が立つやら……混乱するやら。

集中しなさい、絵里。私はぶんぶんと頭を振って、無理やり意識を現実に引き戻した。期末試験まであと二週間しかないのに、まだ三科目も復習計画が終わっていない。イギリス文学、微積分、それにあの忌々しい化学……。奨学生に失敗する余裕なんてないのだ。しぬ!

その日の午後、私は図書館の一番静かな一角サイレント・エリアを選び、『高慢と偏見』を開いていた。まだ母がお酒を飲み始める前、森川県の小さなアパートに住んでいた頃に、よく読み聞かせてくれた物語を思い出す。

エリザベス・ベネットとダーシー氏の物語、いつも心を惹かれた。一人は何の背景もないごく普通の女の子、もう一人は傲慢な金持ちの紳士……。

「奇遇だね」

顔を上げると、危うく手に持っていた蛍光ペンを落としそうになった。悟が、真新しい『高慢と偏見』を手に、私の向かいに座っていた。

「あなたも松本教授のイギリス文学を?」私は彼の手に持つ本を睨みつけ、猜疑心に満ちた声で尋ねた。

「ああ」彼は本を開き、今朝の挑発的な口調とは全く違う声で言った。「でも、正直に言うと、君をより深く理解したくて真剣に読み始めたんだ」

信じられない思いで彼を見つめる。「どういう意味?」

「君がこの本をどう解釈するのか、興味があるんだ」彼は私の目を真っ直ぐに見つめた。「例えば、エリザベスはなぜダーシーの最初のプロポーズを断ったんだと思う?」

くそっ。この真剣な眼差し、真面目な口調……。今朝、「俺に靡かせてやる」なんて言った傲慢な男とはまるで別人だ。

私は彼を観察し、これもまた新たな口説きの手口なのかどうか見極めようとした。だが、彼の表情はあまりに真剣で、心から文学を愛する学生たちを彷彿とさせた。

「彼のプライドしか見えず、本当の彼が見えていなかったから」私は慎重に答えた。

「じゃあ、いつから本当の彼が見え始めたんだ?」悟は意味ありげな視線を私に向けた。

「彼の行動や見た目の下にある、本当の人柄に気づいた時よ」

「つまり」悟は身を乗り出し、優しい口調になった。「見た目や噂が、必ずしも真実とは限らないってことかな?」

待って、これって私のことを示唆している? 女性が男性を拒絶する話……今朝のことを指しているの? 朝とは全く違うこの真剣な態度こそが、彼の戦略なのかもしれない。

「そうかもね」私の声は強張った。「でも、中には本当に裏表のない人もいる。インスタグラムの自己紹介に『一人を選ぶなんて、なぜ? 全員手に入れられるのに』なんて書く人みたいに」

彼は一瞬言葉を止め、それから苦笑した。「もし、その自己紹介文を変えたいって言ったら?」

「どうして?」

「一人だけを選びたいと思わせる女の子に出会ったからな」

心臓が止まりそうになった。今朝は全ての女を征服するなんて言っていたのに、今は一人だけを選びたいと?

その時、スマホが震えた。千恵からの新たなメッセージだ。『どう? 彼、食いついてきた? 覚えておいて、あいつはただの遊び人よ。騙されないで』

現実が一気に私を引き戻す。千恵が言っていたことを思い出した。彼は本気で誰かを愛したことなんて一度もない。この優しさも、この誠実さも、彼の戦略の一部に違いない。

「信じないよ」私は本をまとめ、立ち上がった。「あなたって、たっだ征服する過程を楽しんでいるだけでしょ」

「絵里……」

「やめて」私は彼の言葉を遮った。「あなたがどういう人間か、知ってるから」

だが、背を向けて立ち去ろうとした時、背後から彼が小さく呟くのが聞こえた。

「たぶん、君はまだ俺のことをよく知らない」

一瞬足が止まったが、振り返らずにその場を去った。

図書館を出てから、私は廊下の壁に寄りかかり、混乱した思考を鎮めようとした。どうして手が震えているんだろう?

もっと重要なのは、どうして私は、ほんの一瞬、彼のことを信じたいと思ってしまったんだろう?

スマホが再び鳴った。今度は母のリハビリ施設からの請求書のリマインダー。七百五十万円。

私は深く息を吸い、千恵に返信した。『計画は順調。彼、もう私を追いかけ始めてる』

でも、そのテキストを送った後、今までにない混乱を感じていた。

朝の傲慢な遊び人と、午後の穏やかな紳士……どちらが本当の五条悟なの?

そして何より私をかき乱したのは、その答えを知りたいと願っている自分がいることだった。


それからの一週間、悟はどこにでも現れた。

火曜日には、完璧に淹れられたラテが私の机に置かれていた。小さなメモが添えられて。『結局、エリザベスはダーシーと恋に落ちたじゃないか。  悟より』

木曜日には、廊下で三度も「偶然」彼に会い、そのたびに彼はごく自然に授業内容について話しかけてきた。あの朝の攻撃的な態度は微塵もなかった。

そして金曜の午後、ついに彼は直接的な行動に出た。

「今週末、セーリング・レガッタがあるんだ」彼は私のロッカーに寄りかかった。「パートナーが必要でね」

「奈央を誘えば」私は教科書を整理し続けた。「彼女なら喜んで行くんじゃない?」

「でも、俺は君がいい」彼の声は柔らかかった。「証明するチャンスをくれないか? 俺が君の思うような人間じゃないってことを」

私は手を止め、彼の目を見つめた。そこには朝の傲慢さはなく、ただ読み解くことのできない真剣さだけがあった。

「セーリングなんてできないわ」

「俺が教える」彼は私に向かって手を差し伸べた。「一日だけでいい、絵里。それでも君をがっかりさせたら、もう二度と君に関わらない」

私は差し出された彼の手を見つめ、千恵の言葉を思い出した。もしかしたら……これは彼をもっと夢中にさせる良い機会かもしれない。

「わかった」私は静かに言った。「でも、条件がある」

彼の目に希望が宿った。「どんな条件だ?」

「もし船の上で、あなたがまた朝みたいになったら……」私は彼の目を見据えた。「私はすぐに帰るし、二度とチャンスはあげない」

「約束する」彼は手を差し出した。「誓うよ」

私は彼の手を取り、その掌の温かさを感じた。

けれど、寮に戻ってスマホに届いた千恵からのメッセージを見た時、私は自問せずにはいられなかった。

この条件は、自分自身を守るためのものだったのか。それとも、彼を信じるための口実が欲しかったのか。

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