第1章
「神崎さん、次も期待しています」
私は最後の財界代表と優雅に握手を交わし、完璧なビジネススマイルを顔に貼り付けていた。
オーダーメイドの濃紺のドレスが、成熟した私の輪郭をちょうどよく描き出している。龍神会本部の伝統的な庭園では、石灯籠がまだらな光と影を落としていた。
ハンドバッグを持ち直し、帰ろうとしたその時、見慣れた人影が私の行く手を阻んだ。
「千鶴」
その低い声は、重い一撃のように私の胸を打った。
足が止まり、心臓が激しく跳ねる。
龍二が石畳の真ん中に立っていた。黒いスーツが彼の長身をより際立たせ、その端正な顔立ちは記憶の中のままだった。
「一ヶ月も電話に出ないで、失踪ごっこか?」
彼の視線が、私の剥き出しの背中と、周囲から私に注がれる微かな眼差しを捉える。
彼はジャケットを脱ぐと私の肩にかけ、そのまま私を強く抱きしめた。
私は瞬きを一つし、彼の腕から抜け出す。そして、努めて礼儀正しく、それでいて他人行儀な困惑を顔に浮かべた。
「どちら様でしょうか。どうかご自愛ください。私たちは親しい間柄ではございません」
この言葉の効果は、思った以上だった。
龍二の顔色が瞬く間に曇り、瞳孔が急激に収縮する。
「何だと?」
「どなた様でしょうか、とお尋ねしております」
私は顔に浮かべた不可解な表情を崩さずに続けた。
「もし私のことをご存知でしたら、自己紹介していただけませんか?」
龍二は足早に近づき、私の手首を掴んだ。
あの馴染み深いオーデコロンの香りが鼻をつき、心の奥底に眠る痛みを瞬時に呼び起こす。心臓が胸から飛び出しそうだった。
「ふざけるな、千鶴。今夜は用事があるんだ。お前を宥めてる時間はない」
龍二は少し眉をひそめ、苛立ちを滲ませた。
彼の指が私の頬を撫でる。その慣れ親しんだ感触に、私はもう少しで気を緩めるところだった。
「まだ怒ってるのか? 家に帰って、ちゃんと話そう」
私は冷ややかに一歩下がり、自分の手を引き抜いた。
「失礼ですが、ご自愛ください」
彼の声量が思わず大きくなる。
「神崎千鶴! いい加減にしろ! ふざけるのも大概にしろよ、冗談に決まってるだろうが!」
龍二が私のフルネームを呼ぶことは滅多にない。呼ぶということは、彼が怒っている証拠であり、私が折れて、頭を下げるべきだという合図だった。
ただ、今の私は一ヶ月前の私ではない。
冗談ですって?
その言葉が導火線となり、私の心に埋もれていた怒りの炎が一気に燃え上がった。
『あんなお嬢様気質で、極道の妻が務まるわけないだろ? 遊びだよ』
『龍神会を継いだら、もっと有能な女を妻に迎えるさ。あいつは金糸雀として飼っておくのがお似合いだ』
こんな言葉が、冗談になるというの?
私の感情が暴走しかけたその時、落ち着いた人影が私の背後に現れた。
「何か問題でも?」
直次が濃紺のスーツを纏い、礼儀正しくも毅然とした態度で私の前に立ちはだかる。
彼の出現で、私は瞬時に冷静さを取り戻した。
龍二の視線が私たち二人の間を行き来し、その眼差しに警戒の色が濃くなっていくのがわかる。
「あなたは?」
龍二の口調が危険なものに変わった。
「私は千鶴の婚約者、三隅直次と申します」
直次の声は水面のように静かだった。
「私の婚約者は先日の交通事故で、記憶に影響が出ておりまして。もし彼女のご友人でしたら、彼女に代わって私からお詫び申し上げます」
龍二の顔色がさっと沈み、信じられないといった様子で繰り返した。
「婚約者?」
私は唇をきゅっと結んだ。彼の注意は私が記憶喪失であることに向かうと思っていた。
わざと記憶を失ったわけではない。ただ、父の厳しい表情を前にして、龍二と五年も付き合っておきながら、相手には全く結婚する気がないなどと、とても言えなかったのだ。
この五年、父が彼を跡継ぎとして育ててきた最も大きな理由の一つは、私が彼を好いているからだったというのに。
だから、いっそ記憶喪失になったことにして、すべてをやり直そうと思ったのだ。
私はわざと眉をひそめ、龍二を見つめた。
「私のことをご存知なのですか? 私には全く覚えがないのですが……」
「先ほど、私を家に連れて帰るとおっしゃいましたよね? 私たちはどういうご関係なのでしょう。おかしいわ、父からもあなたのお話は伺ったことがありません」
五年間も一緒にいたのだ。傷口のどこを抉れば一番痛むか、私は知っている。
彼は自分が龍神会の跡継ぎだと自負している。だが、もし私の父がそれを認めなかったら?
五年前、私は彼に一目惚れした。彼は冷淡な性格で、女嫌いで有名だったけれど、私の方から積極的にアプローチし、なりふり構わず彼を愛し、あらゆる手を使ってやっと付き合うことができた。
彼は己の能力に自信があり、私が原因で父から優遇されていると外部に思われたくないため、私たちの関係を公にしてこなかった。
そして今、機は熟し、結婚できると思っていた。
結婚すれば、父も晴れて龍神会を彼に継承させることができる。しかし一ヶ月前、会合の外で盗み聞きしたあの言葉が、私の甘い夢を木っ端微塵に打ち砕いた。
彼の目には、私はただの気ままに弄ばれる金糸雀で、妻になる資格すらないお嬢様でしかなかったのだ。
龍神会が彼を指名したのは、彼の能力ゆえであり、私とは何の関係もない、と。
あの夜、私の心は張り裂け、涙は堰を切ったように溢れ出し、そのせいで車をガードレールに衝突させてしまった。
龍二の表情は硬直し、しばらくしてようやく口を開いた。
「お二人はいつ婚約を? 全く聞きませんでしたが」
直次は私を抱き寄せ、笑みを浮かべた。
「二週間前です。彼女が事故に遭った時、私は気が気でなく、もう待てないと。退院後すぐに婚約しました」
「一ヶ月後に結婚します。千鶴の友人だというのなら、龍二さんもぜひいらしてください」
龍二は答えず、その視線は私に注がれ、拳は知らず知らずのうちに固く握り締められていた。
私は彼の怒りに気づかないふりをして、直次の体に寄り添い、甘い声で言った。
「ぜひお祝いにいらしてください。後日、招待状をお送りしますわ」
彼の瞳に浮かぶ苦痛を見ても、私には報復の快感など微塵もなく、ただ解放感があるだけだった。
私は直次の腕を組み、龍二に礼儀正しく頷いてみせる。
「他に御用がなければ、私たちはこれで失礼いたします」
