「名も知らない朝」
痛覚が、意識より先に目覚めた。
祈が目を開けた瞬間、股関節から大腿の内側にかけての鈍い痛みが全身を固まらせた。
天井が高すぎる。ベッドが広すぎる。空気の中にミント、タバコ、シダーウッドの残り香が漂っている。
寮じゃない。
祈は上半身を起こした。シーツが滑り落ちる。
鎖骨から肩甲骨にかけて、青紫色の吸い痕と歯型が点々と刻まれていた。
床には、あの花柄のワンピースの残骸が散らばっていた。ファスナー部分から真っ二つに引き裂かれている。
ソファの肘掛けには深いグレーのスーツジャケット。金色のステッチが朝の光の中でぎらついていた。
記憶の欠片が、一気に押し寄せてきた。
薄暗いボックス席。誰かのネクタイを掴んでいた自分の手。限界まで抑えていた相手が突然解放した、あの重さ。
暗闇の中で、引き裂かれるような痛みに堪えながら、背中に爪を立てていた。皮肉に食い込むほどに。
全部、思い出した。
目の奥が、じわりと熱くなった。
桐島奏汰が図書館で綾瀬此花を抱きしめてキスをしていた光景が、すぐ後に浮かぶ。
祈は奥歯を噛みしめた。舌の先に鉄の味が広がる。
もういい。
痛みが、崩壊の淵から彼女を引き戻した。
シーツを体に巻き付けて、冷たい大理石の床に素足で立つ。
服を見つけて。着て。出て行く。それだけでいい。
しゃがんでワンピースをひっくり返してみたが、縫い目に沿って裂けた布は、修繕できるような状態じゃなかった。
バスルームのドアは三メートル先にある。
祈は歯を食いしばって立ち上がり、シーツを引きずりながらそちらへ向かった。
その瞬間、ドアが内側から開いた。
水蒸気が逆光の中に広がって、その中から男のシルエットが浮かび上がる。
濡れた黒髪を後ろへ流し、百八十六センチの長身がドア枠をほぼ埋めていた。
腰には白いバスタオルを一枚巻いただけ。肩から腹筋へと続く輪郭の上に、昨夜の祈が刻んだ赤い爪痕が数条、まだくっきりと残っている。
祈の足が、その場に縫い止められた。
その顔——冷たく彫りの深い造形。頬骨の稜線が、刃物で削り出したように鋭い。
だが最も不穏なのは、その目だった。
男性接客業者が浮かべるような愛想笑いとはほど遠い。どこか俯瞰するような、冷たい眼差し。
祈が先に沈黙を破った。
トートバッグを引き寄せてポケットを探り回し、くしゃくしゃの一万円札一枚とボールペンを取り出す。
ベッドサイドのホテルメモ用紙を引き剥がして、金額、日付、分割払いのスケジュールを力強く書き込んだ。
手が震えていた。それでも文字の形は、課題を提出するときのように几帳面に整っていた。
一万円札と請求書を、ベッドサイドテーブルの上に叩きつける。
「昨夜のあなたのサービスは乱暴すぎた。おかげでひどく痛い。これは最低限の基本給。残りは給料が出たら振り込む」
声が震えていた。それでも祈は顎を上げて、自分より三十センチ近く背の高い男を真正面から見返した。
神宮朔の視線がゆっくりと下に動き、一万円札と手書きの請求書の上に落ちた。
五秒間、沈黙が続く。
瞳の奥で、何かがかすかに揺れた。
怒りじゃない。怒りより複雑で、深くて、掴みどころのない何か。
口の端がわずかに上がりかけて——次の瞬間、平らに戻った。
祈は彼が口を開く前に背を向けた。目指すのはバスルームだ。
浴衣に着替えて——違う。浴衣でホテルのロビーを歩いて出るつもりか?
無理だ。
でも、あのワンピースしか服がない。
バスルームのドアまで一メートルというところで、足が止まった。
絶望が冷水のように降り注いでくる。
その場に立ち尽くして、シーツの端を指で絞りながら、祈は自分が透明なガラス箱に詰め込まれた虫みたいだと思った。どこにも行けない。しかもこの男の前で、みっともない姿を晒し続けている。
背後の気配が近づいてきた。
足音じゃない。この男は、ほとんど音を立てずに歩く。
ただ、あの乾いたシダーウッドの香りが、突然濃くなった。
祈は本能的に背中を強ばらせた。視界の端で、横から一本の手が伸びてくるのが見えた。
節くれ立った、指の長い手。何も身に着けていない。
その手の指先に、白い男性用シャツが畳んで掛かっていた。
祈は横を向いた。
彼は一歩も離れていないところに立っていた。わずかに前傾みになった姿勢が、二人の間の圧迫感をさらに強める。
その目が上から彼女を見ていた。瞳の奥に、異様に集中した何かがある——自分にはルールがまったくわからない実験を、遂行しているような目。
祈はシャツを受け取ろうと手を伸ばした。
指先が、彼の剥き出しの指骨の上を滑った。皮膚同士が触れたのは一瞬に過ぎなかった。
祈はその接触が起きたことすら気づかなかった。
だが、朔の呼吸が止まった。
何かに打ち抜かれたように、全身が固まる。瞳孔が急激に縮んで、喉仏がかすかに上下した。
嫌悪はない。拒絶反応もない。
三十年間、ずっとそこにあったはずのもの——女性に触れられるたびに胃の底から込み上げてくる吐き気、窒息感、全身の筋肉が痙攣するあの震え——
起きなかった。
あったのは、乾いた、ほとんど温かいとさえ言える静寂だけだった。
この男の内側で何かが地殻変動を起こしていることなど、祈にはまるでわからなかった。
ただ一つだけ感じた——彼の視線が、重すぎる。
その重さが、横顔から耳に、耳から首筋へと伝って、じわじわと自分を押し潰していくような感覚。
頭皮がじんとした。
祈はシャツをひったくってバスルームへ飛び込み、後ろ手にドアを叩きつけた。
ドアが震えた余韻が、静かな部屋の中で二秒ほど続いて、消えた。
朔はシャツを差し出したままの姿勢で、動かなかった。
閉じたバスルームのドアから視線を外して、ゆっくりと自分の右手の甲に落とす。
彼女が触れた、あの小さな皮膚の一区画。
手のひらを裏返して、長い時間、見つめ続けた。
バスルームの中で、祈は冷水で顔を叩いて、鏡に向かって深呼吸した。
映っている自分は散々な有様だった。
でも、それを細かく確認する時間はない。
白いシャツを羽織る。裾は太ももの中ほどまでくる。袖口を三つ折りにして、やっと指先が出た。
布地に残るシダーウッドの匂いが、体を包んだ。
祈はバスルームのドアを開けた。
部屋の空気が変わっていた。
朔はすでに完全に身支度を整えていた。
深いグレーのスリーピーススーツ。シャツの一番上のボタンまで留めて、ネクタイを締めている。
そしてその手には——祈はすぐに気づいた——手袋が加わっていた。
マットブラック。極薄で、それぞれの指骨の輪郭に沿って密着している。素材は何か非常に高価な皮革のようだった。
数分前にシャツを差し出してきたとき、確かに何もつけていなかった。
今、落地窓の前に立つ男は、あの素手の男とは、何かによって隔てられているようだった。
全身から冷たい、近寄りがたい圧迫感が滲み出ている。
祈はその手袋から目を逸らした。
関係ない。
トートバッグを肩に掛けて、視線をドアに向ける。
「もう二度と会わない。道で会っても、知らない人のふりをして」
返事を待たずに、祈はドアを引き開けて廊下へ飛び出した。
ドアの閉まる音が、背後のすべてを断ち切った。
部屋の中。
朔は閉じたドアを見つめ、その顔の輪郭がゆっくりと変わっていった。
笑みではない。笑みより冷たく、深く、どこか捕食的な弧を描いていた。
右手を持ち上げて、極薄の羊皮越しに、彼女が触れた場所に指先を当てて、静かに撫でた。
ポケットから携帯を取り出して、一つの番号に発信する。
「千葉。今出て行った女を調べろ」
