「苦い朝と、夜の檻」
朝の光が薬局のガラス扉を透かして床に落ち、目が痛いほど白く広がっていた。
祈はカウンターの前に立ち、顔を伏せたまま声を潜めた。
「アフターピルを一箱、お願いします」
薬剤師が確認を取り、箱を手渡してきた。受け取った指先が、知らず知らずのうちに強く閉じていく。
昨夜のことは、まだ鮮明すぎるほど残っていた。
あの男の顔を思い出したくなかった。あんな見知らぬ状況で、なぜ自分が理性を失ったのかも考えたくなかった。今できることは、この事故を早く片づけて、元の生活に戻ることだけだ。
薬局を出ると、祈は道端に立ち止まり、包装を開けて説明書通りに錠剤を飲み込んだ。
アフターピルが百パーセント有効でないことは知っている。それでも、できる限りの手は打った。
空を見上げると、もう完全に明るくなっていた。深く息を吸い込んで、大学のほうへと歩き出した。
午前の授業が終わったのは、いつもより少し遅かった。
建築設計の資料を抱えて教棟から出た祈は、階段を降りたところで足を止めた。木陰に桐島奏汰が立っていた。かなり待っていたのか、シャツは乱れ、顔色も優れない。
「祈」
足は止めなかった。
奏汰が早足で追いついてきて、前に回り込んだ。
「話をしよう」
「話すことなんてない」
「昨日、なんで電話に出なかったんだ」
祈は顔を上げ、静かに彼を見た。「出る理由があった?」
奏汰が一瞬言葉に詰まり、声を落とした。「俺はお前の彼氏だろ」
その言葉が、妙におかしく聞こえた。
真剣に将来を考えていた相手を見つめながら、胸の中にはもうほとんど何も残っていなかった。
「自分が私の彼氏だって、まだ覚えてたんだ」
奏汰の顔色が変わった。
「どういう意味だ」
「別に」祈は資料を胸に抱え直した。「今さら聞きに来ても、もう遅いってこと」
「此花のことで怒ってるのか」
祈は、ようやく立ち止まった。
奏汰が予想していたように泣くことも、なぜ裏切ったのかと責め立てることもしなかった。ただ静かに彼を見返した。その目に、責めるような色はほとんどなかった。
「もう選んだんでしょ」
「俺と此花はそんなんじゃ——」
「じゃあ、どんななの」
奏汰はすぐに答えなかった。
その沈黙が、すべてを語っていた。
祈はゆっくりと息を吐いた。「奏汰、ここで終わりにしよう」
「何を言ってる」
「別れる」
奏汰の顔がみるみる険しくなった。
「今の自分の状況、ちゃんと考えてるか。お父さんが失踪してから残っていった問題もまだ片づいてない。安定した収入もない。生活すらギリギリじゃないか。俺と別れて、どうするつもりだ」
祈の指先が、かすかに固まった。
自分の状況が楽ではないことは知っている。まだ返しきれていない借金があることも、父が失踪して何年も経つのに、その傷がずっと棘のように胸に刺さったままなのも。
それでも、自分を裏切った男の隣に居続ける理由にはならない。
「どうするかは私が決めること」
奏汰を真っ直ぐに見た。声は静かなのに、芯だけが固かった。
「少なくとも今日から、あなたに心配してもらう必要はない」
それだけ言って、人の流れの中に歩み入った。後ろを振り返らなかった。
背後の足音が完全に消えてから、祈はようやく立ち止まり、手を上げて眉間を押さえた。
別れるのは辛いはずだと思っていた。でも実際にその瞬間が来たとき、感じたのは疲労だけだった。
夜の九時、六本木。
祈は制服に着替え、薄暗い照明の店内に戻っていた。
昼間は建築学部の学生、夜はバーのアルバイト。体裁のいい生き方ではないが、自分の力で借金を返せるなら、それで十分だった。この仕事を恥じたことは一度もない。
ただ今夜は、いつもより気持ちが重かった。
ドリンクを運びながらフロアを横切ったとき、視線が奥の席に引っかかった。足が、一瞬だけ鈍った。
あの男が、また来ていた。
黒いスーツに黒い革手袋。姿勢は崩しているのに、店の空気とまるで馴染まない冷たさがある。隣には別の男が座っていて、ふたりは何か話し込んでいるようだった。
目を逸らそうとしたが、遅かった。
男が顔を上げ、薄暗い光の向こうからまっすぐに祈を見た。
視線がぶつかった。先に目を逸らしたのは祈のほうだった。
背を向けて歩き出したとき、低い声が後ろから落ちてきた。
「こっちへ」
問いかけではなかった。命令だった。
少し迷って、それでも足を向けた。
「ご注文はございますか」
「昨日もそう呼んでいたな」
ボトルを持つ手が、ほんの少し止まった。
「昨日、お会いしましたっけ」
男は祈を見たまま、口元に意味のわからない笑みを浮かべた。
「どう思う」
答えなかった。ただ前に進み出て、グラスに酒を注ごうとした。
距離が縮まる。タバコのかすかな匂いがした。黒い手袋に包まれた長い指が、視界の端に入ってくる。
昨夜の断片が浮かんだ。
強引に目を引き剥がそうとした瞬間、焦りで手元が狂い、酒がグラスの縁を越えて男のスラックスに数滴落ちた。
「申し訳ございません」
すぐにナプキンを引き抜こうとしたが、男の手が先に動いた。手首を掴まれた。革越しでも、その力は確かで、動けなかった。
「そんなに急いで」
顔を上げた。
「汚してしまったので、拭かないと」
「昨夜も似たようなことを言っていた」
呼吸が、一瞬止まった。
この男は、わかってやっている。
逃げる代わりに、祈は視線を合わせたまま静かに言った。「記憶力がいいんですね」
「あなたに関することは、よく覚えている」
しばらく、どちらも口を開かなかった。
近すぎる距離。どんな言葉よりも、その沈黙のほうが露骨だった。
やがて男はゆっくりと手を離した。
「また借りができたな」
祈は彼を見た。「返します」
「ああ」
グラスを持ち上げながら、目だけはまだ祈の顔に留まっていた。
「待っている」
それ以上は何も言わず、その場を離れた。
数歩行ったところで、フロアリーダーに呼び止められた。奥の個室にドリンクを届けるよう言われた。
扉を開けた瞬間、祈は固まった。
浅野燎が中にいた。
向かいに座っている男たちは、どう見ても普通の客ではなかった。
「なんでお姉ちゃんが……」
燎は祈を見て、みるみる顔色を失った。
燎の反応など気にせず、祈はテーブルに広げられた借用書に目を落とした。
「いくら借りたの」
「五十万」
先頭の男が品定めするように祈を眺め、視線を全身に這わせた。
「たいした額じゃないけど、お姉さんが来てくれたなら、別の形で解決してもいいですよ」
祈の顔から表情が消えた。
「私は酒を届けに来ただけです。弟の借金を肩代わりする義務はありません」
「じゃあ本人に返してもらうしかないな」
男の手が、ゆっくりと祈の肩に伸びてきた。
体を捻って躱した。声が、低く冷えた。
「触らないで」
それでも手は止まらなかった。
あと少しで肩に届く、その瞬間。
個室の扉が外から勢いよく開いた。
低い声が、静かに降ってきた。
「その手、いらないのか」
