「夜の残響」
声は低かった。それだけで、個室の空気が固まった。
朔が入口に立っていた。
薄暗い照明が彼の輪郭を切り取り、その冷たい顔をいっそう鋭く見せた。
赤髪の男は一瞬固まり、それからわざとらしい笑みを顔に貼り付けて振り返った。
「どこから湧いてきた。死にたいのか——」
言葉が途中で止まった。
朔の目と合った瞬間、男の声が詰まった。
その目は冷たかった。警告ではない。危険だった。
冰见渉が朔の後ろからゆっくりと出てきた。手をポケットに突っ込み、柔らかそうな笑みを顔に乗せたまま、のんびりと口を開いた。
「皆さん、民間の金銭貸借において、法定上限を超える利率の部分は法的保護の対象外になりますよ」
酒のメニューでも説明するような口調だった。少し間を置いて、付け足す。
「知り合いに検察の人間が何人かいましてね。最近、わりと暇そうなので」
赤髪の男の笑みが、完全に固まった。
渉は軽く肩をすくめた。
「もちろん、今すぐお帰りになるなら、今夜のことはなかったことにします。お会いしたことも忘れますよ」
三人は顔を見合わせた。
短い沈黙の後、赤髪の男は借用書をテーブルに叩きつけ、無言で立ち上がった。残りの二人もそれに続く。廊下から、誰かが出口に急いでぶつかったような鈍い音がした。
個室が静かになった。
祈はようやく、ずっと握りしめていた手を開いた。
振り返ると、朔はまだ入口に立っていた。黒い手袋が長い指を覆い、表情には何の変化もない。それなのに、さっきの一言がまだ耳に残っていた。
冷えた声で放たれたあの言葉。
初めて気づいた。この男が本気で怒るとき、人は本能的に目を逸らしたくなる。
それでも、怖いとは思わなかった。
祈は燎の前に立った。
「五十万」静かに言う。「今月中に返すの、それとも来月?」
燎は顔を上げ、顎を固く引き結んだ。
「自分でどうにかする」
「どうにかって、何で」
責めてはいなかった。ただ淡々としていた。それがかえって、責められるより堪えた。
燎は黙ったまま視線を外し、立ち上がって部屋を出ていった。
祈はその背中が消えるまで見送り、静かに息を吐いた。追いかけなかった。向き直ると、ずっとそこに立っている男と目が合った。
「ありがとうございました」
軽く頭を下げる。
「今夜のこと、覚えておきます」
立ち去ろうとすると、背後から声がかかった。
「ここのアルバイト、もう来なくていい」
足が止まった。振り返る。
「何ですか、それ」
「安全じゃない」
「わかってます」祈は彼を見た。「でも、それは私が決めることです」
朔は少し黙った。
「今は俺の問題でもある」
祈は一瞬、言葉に詰まった。
「なぜですか」
答えは返ってこなかった。
朔はただ祈を見ていた。その視線は彼女の顔の上でしばらく止まり、本当に考えているようにも、最初から答えるつもりがないようにも見えた。
見つめられていると落ち着かなくなって、先に目を逸らした。
「助けてもらったことには感謝しています」少し間を置く。「でも私たちはただの他人同士です。今夜が終わったら、それだけ。どこで働くかは、あなたには関係ない」
隣で渉が小さく咳払いをした。笑いを堪えているようだった。
朔が横目で一瞥する。
渉はすかさず天井に視線を向け、何も聞こえていない顔をした。
祈が口を開こうとした瞬間、朔が一歩踏み出した。
反射的に後退した。
背中が冷たい壁に当たったところで、ふたりの距離が近すぎることに気がついた。朔が壁に手をついて、上から視線を落としてくる。
近い距離で、その目の奥にある冷たい白い光がはっきり見えた。かすかな木の匂いがした。
昨夜のことが浮かんだ。
同じ距離。同じ、抗いがたい圧力。
ただ今夜は、頭が冷えていた。
「これはセクハラです」
目を合わせたまま、できるだけ落ち着いた声を出した。
「そうだな」
否定しなかった。後退もしなかった。ただスーツの内ポケットから名刺を一枚取り出し、祈がトレイを持つ指の間に挟んだ。
「何かあれば連絡してくれ」
マットな黒い名刺だった。表には電話番号だけ。名前も肩書きもなかった。
祈は少し目を落とした。
「かけません」
朔は彼女を見た。
「どうかな」
軽い言い方だった。それなのに、胸の奥が小さくはねた。
顔を上げると、朔はもう身を引いていた。
「車が下にある」顎で階段の方向を示す。「送っていく」
「まだ仕事が終わってません」
「フロアリーダーには話をつけた」
祈はしばらく彼を見ていた。
この男は何者なのか。
昨夜から、祈が最も追い詰められた瞬間に現れる。そして、他人がするはずのないことを、何の説明もなくする。
「あなたは何者ですか」
朔は答えず、踵を返して階段の方へ歩き出した。
二歩ほど行ったところで止まり、振り返った。
「来るか」
渉がのんびり口を挟んだ。「浅野さん、彼が人を送るのは珍しいんですよ。せっかくなので」
「渉」
「はい、黙ります」
祈は名刺を手の中で握り直した。
少し考えてから、後に続いた。
サイドの出入口に黒いセダンが停まっていた。
運転手は朔を見ると、無言で後部ドアを引いた。
祈が乗り込むと、ドアが閉まった。外の音楽と喧騒が、一瞬で遮断される。
車内は静かだった。
名刺を掌の中で見つめてから、祈はそれをバッグにしまった。
朔は反対側の席でシートに背を預け、目を閉じていた。ふたりの間には、遠くも近くもない距離があった。
それなのに、その存在感は昨夜よりずっと大きく感じた。
首都高に入り、街灯が窓の外を流れていった。
しばらく経って、朔が口を開いた。
「建築を勉強してるのか」
祈は横を向いた。「なぜ知ってるんですか」
「あの夜、バッグに図面が入っていた」
祈は少し間を置いた。
あの夜、自分はかなり酔っていた。こんな細かいことを彼が覚えているとは思っていなかった。
「神宮ホールディングスの設計事務所が、アシスタントを募集している」朔は続けた。「履歴書を送る価値はある」
「そこと関係があるんですか」
「人から聞いた」
さらりと言う。本当にただの雑談のように聞こえた。
祈は数秒彼を見てから、窓の外に目を戻した。
車は宿舎棟のサイドゲート前に停まった。
降りる前に、祈は振り返った。
「今夜は……ありがとうございました」
朔は黙ったまま、ただ彼女を見ていた。
ドアが閉まって、ようやく足を動かした。
部屋に戻ったのは、もうすぐ夜中の一時という時刻だった。
此花がドレッサーの前でメイクを落としていた。鏡越しに祈を見る目に、微妙な色があった。
「奏汰から連絡が来たわ」ゆっくりと言う。「クラブでバイトしてるって。誰かに送ってもらったって」
少し間を置いてから、口元に薄く笑みを乗せた。
「祈、最近ずいぶん夜の生活が充実してるのね」
「私を監視する暇があるなら、まず自分の顔でも見直せばいいのに」
此花の笑みが一瞬固まった。
「心配してるだけ——」
「此花」
祈は遮った。声は静かだった。
「彼と寝てたとき、私のことを心配した?」
ドアが閉まった。
静寂が戻ってきた。
ベッドの頭側に背をもたせかけ、祈はしばらく眠れなかった。
今夜のことが、頭の中を繰り返し流れていく。
項垂れていた燎の顔。伸びてきた赤髪の男の手。そして、ドアを開けて現れた男。
特にあの言葉が。
——今は俺の問題でもある。
そして「どうかな」と言ったときの、あの根拠のない確信めいた口調。
祈は眉をわずかに寄せた。
なぜ彼のことを考え続けているのか、自分でもわからなかった。
まだ二度しか会っていないのに。
スマートフォンを手に取り、求人情報を開いた。
神宮ホールディングス傘下の設計事務所のページはすぐに見つかった。建築設計アシスタント、勤務地は丸の内。
要件は高い。
それでも、自分の成績と作品集なら、応募条件は満たせるはずだ。
「今すぐ応募」のボタンをしばらく見つめてから、タップした。
送信完了。
スマートフォンを置き、バッグから黒い名刺を取り出した。
照明の下、電話番号だけが静かにそこにあった。
長い時間見つめて、祈は名刺をベッドサイドテーブルの上に置いた。
翌日の午後、図書館の隅で祈は問題集の上にペンを止めたまま、ずっと動かせずにいた。
スマートフォンが振動した。
広告だろうと思いながら画面を開き、送信者を見た瞬間、指が止まった。
