「距離と鼓動」

祈は拭わなかった。

服従ではない——この空間で彼と正面からぶつかっても、勝ち目はゼロだと分かっていただけだ。

深く息を吸い、襟元を整え、顎を上げる。声は平坦に戻っていた。

「会社では距離を保ってください。私はただ夢を追いかけている一般社員です。あなたのせいで面倒事に巻き込まれるのは、割に合わない」

返事を待たずに踵を返した。

「祈」

足を止めなかった。ドアノブが冷たい。力を込めて回すと、廊下の冷気が顔に当たった。

背後でかすかな鼻息が聞こえた気がしたが、振り返らなかった。

エレベーターホールに着き、扉が閉まる瞬間にようやく手の甲で唇を強く拭った。

口紅は落ちた。だが彼の気配だ...

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