「悪阻」

【神宮ホールディングス傘下設計事務所・人事部:面接のご案内。明日午前十時、丸の内本社ビル二十二階にお越しください。作品集の原本をご持参ください。】

祈はしばらく画面を見つめていた。

胸の奥で、何かがゆっくりとほどけていくような感触があった。

感情のことはまだ答えが出ない。でも、生活は止まれない。

丸の内の朝は、荒川区とは別の世界だった。

二十二階の受付エリアに立った祈は、スーツの裾を軽く整えた。昨夜アイロンをかけたのに、電車の中で浅い皺が一本入っていた。手のひらで押さえてみたが、どうにもならなかった。

いい。作品が話してくれる。

周りの応募者はほとんど仕立てのいいスーツを着ていて、手元の作品集も祈のものより洗練されて見えた。比べるのをやめて、祈は自分の設計図に目を落とした。

そのとき、エレベーターのドアが開いた。

男が一人、中から出てきた。

濃い色のスーツ。黒い革手袋。

足は止めずに、受付エリアの前を通り過ぎようとした。その視線が、何気なく流れてきた。

そして、止まった。

朔は彼女を見た。

その女は作品集に顔を向けたまま、真剣な表情で何かを確認していた。こちらに気づいていない。

六本木の夜と比べると、今日は正装で、長い髪を後ろに束ね、薄いメイクをしている。夜の柔らかさが消えて、学生らしい真剣さがそこにあった。

二秒ほど見てから、声はかけなかった。そのまま前へ歩いた。

エレベーターのドアが閉まりかけたとき、祈がようやく顔を上げた。

閉じていくドアの隙間に、黒い革手袋が一瞬だけ見えた。

少し間があった。

見覚えがある、と思った。

でも、エレベーターはもう上へ向かっていた。数字が変わっていくのをしばらく見てから、祈は頭を振った。

気のせいだろう。

面接は、思っていたよりうまくいった。

面接官が最後の数ページをめくり、顔を上げた。

「浅野さん、このスペースをこういう設計にした理由を聞かせてもらえますか」

祈は図面を一瞥した。

「建築はまず、生活に奉仕するべきだと思っているので」

少し間を置いて、続けた。「視覚的な効果のために使う人が建築に合わせるのは違うと思います。建築は、人の必要に正直に応えるべきで」

面接官が頷いた。

「予算が削減された場合、どこから削りますか」

ほとんど迷わなかった。

「装飾的な部分です」

「理由は」

「建築に最後まで残るのは、写真の中の見栄えじゃなくて、そこで毎日を過ごす人だから」

会議室がしばらく静かになった。

面接官が作品集に何かを書き込んだ。

二時間後、ビルを出たとき、祈はようやく息を吐いた。

最後まで残れるとは思っていなかった。

同じ時刻、四十七階。

千叶律が書類をデスクに置き、下がろうとした。

「今日の二十二階の面接は終わったか」

朔は資料を繰りながら、静かに言った。

「終わりました」

「建築設計アシスタントの最終候補リストを出してくれ」

六部のファイルが届いた。

一枚ずつめくっていき、三枚目で手が止まった。

浅野祈。東都建築大学建築学部。

写真を一瞬見て、評価欄に目を移した。

「専門基礎が確かで、設計コンセプトが明確。現場での受け答えも優秀」

各項目の面接評点も高かった。

視線がそこに留まった。

何も言わず、そのファイルを元の位置に戻した。

千叶は、その一瞬の停止に気づいていた。

「彼女の書類を別に取り置きますか」

「要らない」

朔はファイルを閉じた。声に抑揚はなかった。

「通常の手続きで」

「承知しました」

千叶は書類をまとめ、それ以上は何も聞かなかった。

夕方の六時、祈は銀座のフランス料理店の制服に着替え、シフトに入る準備をしていた。

スマートフォンが震えた。

【神宮ホールディングス傘下設計事務所・人事部:このたびは面接にご参加いただき、誠にありがとうございました。選考の結果、採用のご連絡をさせていただきます……来週月曜日の午前九時に、二十二階人事部までご来訪ください。】

祈は数秒、画面を見ていた。

それから、ゆっくりと俯いた。

笑いが出た。

スマートフォンを両手で握ったまま、深く息を吸って、店内へ戻った。

夜八時、商務客が一テーブル入ってきた。

支配人が自ら出迎えに出た。祈は離れたところで作業していて、最初は気に留めなかった。

低く、落ち着いた声が聞こえた瞬間、手が止まった。

振り返った。

黒い革手袋が目に入った。

胸の中で、何かが小さく跳ねた。

やはりそうだった。

男は窓際の席に座り、向かいにはスーツ姿の中年男性が二人。テーブルには書類が広げられていた。

ホストではなかった。

少なくとも……自分が思っていたような人間ではない。

すぐに視線を引き剥がした。が、背を向けようとした瞬間、朔も顔を上げた。

店の端から端で、視線がぶつかった。

今度は、どちらも気づかないふりはできなかった。

朔の目の奥に、薄い笑みのようなものが過ぎった。

祈は先に目を逸らした。

「浅野」

支配人が呼んだ。

「今夜、四番テーブルを担当して」

「はい」

グラスを手に歩み寄った。

「失礼いたします。本日担当させていただきます」

朔が目を上げた。

「また会ったな」

「ご縁がありますね」

グラスを置き、それ以上の反応は返さなかった。

「ご注文はお決まりでしょうか」

「俺と会うとき、いつもそんなに緊張してるのか」

動きが一瞬止まった。

「緊張していません」

「ならいい」

視線を向かいの客に戻し、仕事の話を続けた。

祈はそのとき初めて気づいた。仕事をしているときの彼は、六本木にいたときとまるで違う。軽さがない。わざとらしい距離感もない。相手が話すとき静かに聞いて、冷静な目で、指先をテーブルの上に軽く置いている。

最初から、見誤っていたのかもしれない。

食事が終わっても、朔は特に何も言わなかった。帰り際、祈の持つトレイをちらりと見た。

「まだ仕事が残ってるのか」

「閉店まで」

「終わったら、どうやって帰る」

「電車で」

それ以上は聞かなかった。

夜の十時半、閉店作業が終わった。

着替えて外に出ると、見覚えのある黒いセダンが店の前に停まっていた。

窓が下がった。

朔が後部座席にいた。

「乗れ」

祈は動かなかった。

「一人で帰れます」

「わかってる」

彼は祈を見た。「でも遅い」

数秒迷って、ドアを引いた。

車内は静かだった。

窓の外を流れる夜の街を眺めながら、祈は口を開いた。

「いつもこうやって送るんですか」

「しない」

「じゃあなぜ私を」

朔はすぐに答えなかった。

少し経ってから、淡々と言った。

「会うたびに、急いでる顔をしてるから。かもしれない」

祈は少し間を置いた。

どうしてこの一言が、どんな甘い言葉よりも胸に引っかかるのか、自分でもわからなかった。

何か返そうとした瞬間、胃の底から不快感がこみ上げてきた。

顔色が変わった。反射的に口元を押さえた。

「どうした」

「何でもないです」

数秒こらえたが、眉が寄り、顔を横に向けた。

朔がしばらく見ていた。

それから、静かに口を開いた。

「まさか、妊娠してるんじゃないか」

祈は勢いよく身を起こし、朔を振り返った。

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