「四十七階の男」
月曜日、丸の内。
八時二十九分、ヒールの音が廊下の奥から響いてきた。それまでどこか緩んでいたオフィスフロアが、すぐに静まり返った。
黒木凛香が黒いタイトなスーツを着て、祈のデスクの前まで歩いてきた。書類を一部、置いた。
「十項目。今日の六時まで。終わらなかったら、明日から来なくていい」
そう言って背を向けた。
祈はファイルを開いたが、文句は言わなかった。ただ素早く優先順位を組み直し、タスクを並べ替えた。
隣のデスクからすぐに顔が覗いた。温かい缶コーヒーが手元に押しやられた。
「前の実習生は四項目で潰れた。頑張って、後輩」
「ありがとうございます、先輩」
坂本紬。入社二年目。祈の大学の先輩で、今のところこのフロアで唯一、自分から話しかけてくれる人間だった。
祈は雑談せず、すぐに仕事に戻った。
ほとんど休まなかった。午後二時になってようやく、書類を届けるついでにコンビニでおにぎりを買い、事務所の入口に立ったまま急いで食べて、すぐに会社に戻った。
五時四十七分、最後の一部が黒木のデスクに置かれた。
黒木は手元の仕事を片づけてから、ファイルを開いた。二ページ、三ページ。最後まで目を通してから、閉じた。
「悪くない」
顔を上げて祈を見た。
「明日は八時半。遅れるな」
祈は頷いた。
「承知しました」
デスクに戻ると、指先がわずかに震えていることに気づいた。荷物をまとめて、ようやく疲労が押し寄せてきた。
給湯室では、紬がもう待っていた。
「初日で十項目全部終わらせたの、入社二年で二人目も見たことない」
「運が良かっただけです」
「私がそんなの信じると思う?」
紬は少し笑い、それから声を落とした。
「でも一つだけ忠告しとく。このビルには、話しかけないほうがいい人種がいる」
「どんな人ですか」
「社員証つけてない。服が高い。普通の社員みたいな歩き方しない。いきなりどの階にも現れる」
祈はあの夜の男を思い出した。
「社長ですか」
「神宮家のあの方」紬の声がさらに小さくなった。「三十代前半らしい。普段めったに姿見せないし、社員とも話さない」
少し間を置いた。
「それと、変な癖がある」
「何ですか」
「年中、黒い手袋してる」
コーヒーを持つ手が、一瞬止まった。
黒い手袋。
男の姿がすぐに頭に浮かんだ。
でもすぐにその考えを打ち消した。
偶然のはずだ。
入社三日目の午後、祈は図面を二本抱えてエレベーターに乗った。
一番上の図面が視界を遮っていた。顎で押さえながら、手を伸ばして階数ボタンを押そうとした。指先がボタンに触れた瞬間、腕の中の図面が滑り落ちた。
反射的に受け止めようとしたが、黒い革手袋をした手が先に下から支えた。
祈の動きが止まった。
馴染みのある杉とミントの香りが横から近づいてきた。顔を上げる前から、誰なのかわかっていた。
やはり彼だった。
濃い色のスーツ、黒い手袋、相変わらず落ち着いた表情。
「また会ったな」
祈は図面を受け取ったが、すぐには口を開かなかった。
月曜に別れたとき、車の横で彼が言った言葉を思い出した。
——来週月曜、ちゃんと出勤しろ。
あのときは奇妙に思っただけだった。でも今また彼と会って、あの言葉が突然、妙に引っかかった。
「最初から知ってたんですね」
朔が目を落とした。
「何を」
「私がここで働くこと」
「なぜそう思う」
「だってあの日、そう言ったじゃないですか」
祈は彼を見た。
「どうして私が今週月曜から出勤するって知ってたんですか」
朔は答えず、また滑り落ちそうになった図面を支えた。
「ずっと考えてたんだな」
「おかしいと思っただけです」
「答えが出ないか」
「はい」
朔がわずかに笑った。
「じゃあゆっくり考えればいい」
祈は眉を寄せた。
答えていないのと同じだった。
しばらく彼を見つめてから、ふと尋ねた。
「あなたは一体何者なんですか」
「またその質問か」
「だっておかしいんです」
「どこが」
「あの夜、六本木であそこの人たちを知ってた。それから丸の内に現れて、私がいつ出勤するかまで知ってる」
少し間を置いた。
「一体何をしてるんですか」
朔は彼女を見たが、自分の身分を説明せず、ただ淡々と言った。
「俺のことが、思ってたより気になってるみたいだな」
「そんなことありません」
祈はすぐに視線を逸らした。
「たまたま何度か会っただけです」
「たまたま?」
「違うんですか」
朔は赤くなった耳たぶを見て、口元がわずかに上がった。
「確かに偶然だな」
祈は彼の言い方に余計落ち着かなくなった。
手元の図面を整理し直そうとして、また彼の手袋の縁に指が触れた。
ふたりとも一瞬止まった。
朔はすぐには手を引かなかった。
薄い革越しに、あるかないかの距離が、実際に触れるよりも無視できなかった。
祈が先に手を引いた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
エレベーターが上昇を続けた。
短い沈黙の後、祈はまた口を開いた。
「前に、私が六本木で働いてること、誰にも言わないって」
「ああ」
「なぜですか」
「約束したから。言わない」
「それだけ?」
「他に何がある」
祈は顔を上げた。
「これからも会うと思ってるんですか」
朔が見下ろした。
少ししてから、笑った。
「もう会ってるじゃないか」
祈は言葉が出なかった。
到着音が鳴った。
ドアが開き、図面を抱えて出た。
二歩ほど歩いたところで、背後から声がかかった。
「浅野」
振り返った。
朔がエレベーターの中に立ち、もう一本の図面を手にしていた。
「忘れ物」
祈は戻って受け取った。
今度は、ふたりの手は触れなかった。
ドアが閉まりかける直前、朔が彼女を見た。
「ちゃんと仕事しろ」
祈は少し呆けた。
この四文字は、あの夜の言葉とほとんど同じだった。
ドアが完全に閉まった。
その場に立ち尽くしたまま、疑問はますます深まっていった。
彼は一体何者なのか。
それに、なぜあんなに確信していたのか——
自分が必ずここに来ると。
エレベーターのドアが再び閉まった。
祈はその場に立ったまま、数字が再び動き出すまで動けなかった。それから腕の中の図面に目を落とした。
心拍が少し速いことに気づいた。
恐怖ではない。
ただあの男が近づいてくるとき、いつも冷静でいられない。
二十二階に戻ると、祈は役員専用エレベーターホールの前を通り過ぎようとして、足が遅くなった。
濃い色のスーツを着た男性三人が立っていて、そのうちの一人は全体会議で最前列に座っていた部長だった。
今は背筋を伸ばし、両手を前で組んで、静かにエレベーターを待っていた。
到着音が鳴った。
ドアが開き、数人が同時に軽く頭を下げた。
祈は少し離れたところから、見慣れた深いグレーの背中が入っていくのを見た。
黒い手袋。
高い背丈。
そして、もう何度も見た顔。
階数表示が上へ向かっていった。
四十七階。
祈の足が完全に止まった。
坂本紬の言葉を思い出した。
三十代前半。
神宮姓。
年中黒い手袋。
そして四十七階は、社長執務エリア。
まさか……
考えを続けたくなかった。
でもあの男が去り際に言った言葉が、どうしても頭から離れない。
「来週月曜、ちゃんと出勤しろ」
四十七階。
朔がオフィスに入ると、千叶律がすでに中で待っていた。
「社長」
朔は片方の手袋を外し、デスクの端に置いた。
「話せ」
千叶がファイルを開いた。
「桐島建設の件です」
表情が厳しくなった。
「五年前、浅野建材の下請け工事を担当していた桐島建設のプロジェクトマネージャーが、先週突然退職しました。行方不明です」
