「衝突路地の真相」
朔の指が、デスクを音もなく二度叩いた。
「調べろ」
「はい」千葉は余計な問いを挟まず、タブレットにメモを取った。
「もう一件、ご確認いただきたいことがあります。千葉氏が本日、桐島建設のルートを通じて、品川再開発プロジェクトの審査委員会に資料を一部提出しました。表向きは建材サプライヤーの資格報告書です」
「引用しているデータは五年前のものだ」
「はい。浅野建材が請け負った工事と同じ時期のものです。探りを入れています」千葉が少し間を置いた。「しかも、意図的に私どもが把握できるルートを使って」
「こちらが調査していると知っている」
「はい」
朔の指が止まった。体を回して、視線を窓の外の暮れかけた稜線に向けた。
夕闇が東京を飲み込みつつあった。遠くのビル群が、一棟ずつ灯りを落としていくように見えた。
「向こうに推測させておけ」声は淡かった。「通常のフローで進める。承認もしないが、止めもしない。こちらが何を把握しているか相手が確かめようとしてから、次を考える」
千葉は〈承認も停止もしない〉の境界線がどこにあるかを聞かなかった。社長に仕えて五年、その言葉の意味は理解していた——今は手を出さない、しかしリストには入った。
静かに頷いて、退室した。
入社五日目。
祈は凛香のペースに慣れ始めていた。タスクリストは一項目終わると二項目増えた。〈いつでも死ねる〉から〈なんとか生きている〉に昇格した、という程度の話だった。
昼、給湯室に人は少なかった。祈が前に出てお湯を入れていると、自動販売機の前に一人の男が立っているのが視界の端に入った。
顔は見なかった。ただ、濃色のスーツのまっすぐな輪郭だけが余光に映った。手にはタブレットを持っていて、飲み物を選ぶ様子はなく、ただそこに立って、視線がなんとなく祈の方向に向いていた。
給水機のうなりが止まった。祈はカップを取り上げて給湯室を出た。
午後、書類を抱えて庶務部へ向かった。
上層階専用エレベーターのドアがゆっくり開いて、また同じ男が出てきた。
今度は距離が近かった。顔をはっきり見た。
金縁の眼鏡が目の窪みに沿って収まっていて、廊下の照明がレンズに映り込んで、表情の大半を隠している。残っているのは、感情を映さない眉と目だけだった。しわ一つない仕立てのスーツ、指先にタブレット、歩き方が普通の社員と根本的に違う。
すれ違いざまに、男がわずかに首を傾けた。
品定めではなかった。もっと事務的な、確認するような仕草だった——今日もここにいる、この位置にいる、ということを確かめるような。
考える間もなく、スマホが振動した。凛香から新しいタスクが来ていた。
夕方、オフィスの人がまばらになった頃、凛香が封緘袋を祈のデスクに叩きつけた。
「品川の加藤事務所。社印と委任状は森田所長本人の受け取りが必要」
「締め切りは」
「六時十五分に別の予定が入っていて、その後はいない」
祈は窓の外を一度見た。陽が傾き始めていた。橙と赤の光がガラス幕墻の外から押し込んで、オフィス全体を薄い金色に染めていた。
丸の内から品川まで、電車で最低二十五分。歩きと待ち時間を足せば——タイトだが、できる。
「わかりました」
バッグを掴んでオフィスを飛び出した。エレベーターを待たずに非常階段を駆け下りた。
一階の側出口の駐輪スペースに共用自転車が数台あった。一台を引き出して、封緘袋を前かごに放り込み、跨ってすぐに漕ぎ出した。
丸の内の夕方は車が詰まっていた。信号が続いた。
脇道に入り、路地を抜けながら、頭の中で最短ルートを弾き出した。
風が顔に当たって冷たかった。汗が吹き飛んで薄い寒気に変わった。
前輪が浮いた石畳を踏んで、ハンドルが一瞬ぶれた。握り直して、速度を落とさなかった。
曲がり角、丁字路。脇道から出た瞬間、視界の端に巨大な黒い影が飛び込んだ。
ブレーキが間に合わなかった。
前輪が黒い車の右後部ドアに当たった。金属と金属がぶつかる音が路地に炸裂して、祈は自転車ごと地面に投げ出された。肩が先に着いて、膝がアスファルトを削った。
二秒間、そのまま伏せていた。
肩と膝から同時に痛みが上がってきた。二本の水流が体の中で合流するように。
声は出なかった。唇を噛んで、前かごに向かって手を伸ばした。指先が封緘袋のビニール口に触れた瞬間、ようやく息を吐いた。
頭を上げて、ぶつかった車を見た。
黒。ボンネットのエンブレムは、雑誌でしか見たことのない、あの飛ぶ女神像だった。右後部ドアの塗装に、白い引っかき傷が一本、くっきりと走っていた。濃い車体の上で、それは傷口のように見えた。
何の車かはわかっていた。
値段もわかっていた。
後部ドアが開いた。革靴が先に地面に降りた。次に、折り目の正確な西装のズボン。最後に、黒い皮手袋。
朔は地面に座ったままの祈を見下ろして、三秒黙っていた。
「八百万」
「何ですか」
「右後部ドアの修復費用。それ以上かかるかもしれない」
祈は地面に手をついて立ち上がった。膝がひりついた。血が足首の方へ伝っていた。
一度下を見て、顔を上げた。前かがみになって自転車を起こし、前輪を確認した。まだ回る。
「弁償します。でも今はできません、急ぎの用があって——」
「膝から血が出ています」
「わかってます。品川に行かないといけない」
自転車に跨った。踏台に足を乗せた瞬間、膝に鋭い痛みが走った。何かが内側から引き裂かれるような感触だった。
唇を噛んだ。声は出さなかった。
朔はその場に立って、祈を見ていた。
膝から血を流して、手のひらの皮が剥けて、顔が紙のように白くなっていて、歪んだ自転車がまだ使えるかどうかを確かめている。
強がっているのではなかった。この人間は本当に、封緘袋を届けることの方が自分の怪我より重要だと思っている。
朔は封緘袋を祈の手から取り上げて、電話をかけた。
「千葉、六時十五分までに品川の加藤事務所の前に行け。封緘袋を受け取って、森田所長本人に署名させろ」
「承知しました」
祈はゆっくりと顔を向けた。朔が電話を収めて、封緘袋を助手席側から降りてきた運転手に渡した。
祈の視線が、その黒い皮手袋から彼の顔へと移った。自転車のハンドルを握る指先に力が入った。
「お名前は何ですか」
朔は答えなかった。
「集団のどの部署の方ですか」
車のドアに向かって歩きかけた。
祈はその場に立ったまま、膝の血が足元へ伝い落ちるのを感じながら、背中を見ていた。
ドアの傍で、朔が半身だけ振り返った。
「乗りなさい。傷の手当てをする」
「それを聞いたんじゃない」
「聞いたことには」朔の声は、すでに決まっていることを言うような平らさだった。「乗ってから答える」
